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2015年12月

2015年12月28日 (月)

世界の歴史を少し正確に理解する 神聖ローマ帝国登場

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神聖ローマ帝国は西暦800年から1806年まで続いたドイツを中心とした1000年大国でした。ドイツが中心ではありますが当初はイタリアやオーストリア、スイス、ルクセンブルクや東欧まで含んでいます。教皇領として提供したローマは含みませんが、実質カトリック教の本拠地です。途中から領土が縮小し国名は「ドイツ国民による神聖ローマ帝国」に変わります。

 

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「神聖」ローマ帝国というだけあってキリスト教に関係が強く、キリストの死刑に使われ、キリストの血に染まったことで最強の槍と呼ばれている「ロンギヌスの槍」は今でもドイツ(ホーフブルク宮殿)にあるようです。神聖ローマ帝国はそもそもカロリング朝フランク王国であり、それが分裂した東フランク王国であり、戦争やクーデターではなくオットー1世がフランク王国ではなくローマ帝国(西ローマ帝国)の正式な継承者として教皇(法皇)から戴冠を受けます。歴史を見ればゲルマン民族が西ローマ帝国を滅ぼしたと言えますし、カトリック教もローマ発祥とはいえ教皇が西ローマ帝国の王位をフランク王国に授けられる立場にはないような気がするのですが、既にかなりの勘違いが教皇にもフランク王国にも発生していたのでしょう。教皇は神に近づいていたのです。またカール大帝の古代文化の復興運動「カロリング・ルネサンス」が古代ローマ帝国の名前を選んだ原因かもしれません。

 

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つまりドイツこそが現代から200年前までカトリックの中心地であり、ローマは単に教皇の住む場所なのです。ギリシャ正教のギリシャとカトリックの本拠地、ドイツは宗教的にあまり仲が良くないのかもしれません。またドイツがユダヤ教迫害に走った理由がここにあるのかもしれませんが、それはもっと先に勉強していきます。ここで重要なのはローマ帝国という名前はどうでもよくて「神聖」国がドイツに登場しカトリックの国となったことを国名にまで刻んで宣言した事です。またローマ帝国という言葉に騙されないように、フランスのようなフランク国がイタリアのようなローマ帝国をドイツの地に作ったという事です。

 

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ここでは東フランク王国が神聖ローマ帝国に変わったという名称変更を見ています。今後のヨーロッパの歴史を勉強する上での一つの主役が登場した事になります。

 

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2015年12月27日 (日)

世界の歴史を少し正確に理解する キリスト教の台頭とバランス

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キリスト教がヨーロッパで主流になったのはフランク王国の影響であることがわかりました。特に教皇が戴冠したカール大帝の圧力が強く「ヨーロッパの父」(=頑固おやじ?)と言われる理由もわかります。ヨーロッパにキリスト教を伝えたのはパウロですが、そこから変化したカトリック教をヨーロッパに広げたのはカール大帝であり、彼はもう一人の使徒と言えるかもしれません。ちなみにローマをカトリック教会のために取り戻したのもカール大帝ですし、彼は古代文化の復興運動「カロリング・ルネサンス」まで行いました。

 

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キリスト教が良くも悪くもカトリック教で統一されキリスト教共同体となったのはスペインまで占領していたイスラム国とイスラム教に対する作用・反作用だと感じています。「思想と宗教の統一」は強い安定した国づくりに効果的です(必須とは言いません、宗教は本来自由選択であるべきです)。一方で現在のトルコ、コンスタンチノープルというユダヤやイスラムの国に近い場所に首都を置いていた東ローマではギリシャ正教が主流になっています。カトリックとの明確な違いは偶像崇拝の禁止であり、そのため「正教」と言われるのでしょう。隣国で大国のイスラム国と敵対するのではなくバランスを取るためには聖書に明記されている偶像崇拝の禁止を強化したのでしょう。ただトルコなのにギリシャ正教というのも不思議ですよね。

 

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そもそもキリスト教はユダヤからの迫害を避けるためヘブライ語ではなくギリシャ語で書かれました。なお学校ではギリシャ正教会と習いましたが「正教会」単独の方が正確と言えそうです。英語では「オーソドックス」と呼ばれており聖書に忠実なキリスト教です。例えばエルサレムの教会も当然のように「正教会」です。現代ではギリシャもそうですがロシアを含む東欧諸国のキリスト教徒の大部分が正教徒だそうです。ここに政治的、宗教的な境目があり、ギリシャは中間位置にあります。

 

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西欧を中心に歴史を見ると見逃してしまいますが、プロテスタントが出るまでカトリックと正教の大きな二つの派閥に集約されつつあります。

 

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2015年12月26日 (土)

世界の歴史を少し正確に理解する ローマ教皇

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「パパ」教皇はカトリック教のトップです。そもそも階層がある事自体、純粋なキリスト教としてはおかしいのですが。初代は「ペトロ」となっています。ペトロはバチカンでローマ市民により迫害されて無くなった、キリスト教をヨーロッパに広めた使徒でしたね。彼の遺骸はバチカンの地下に埋まっていると言われます。「自分の声はペトロの声である」つまりペトロの生まれ変わりというか正統子孫が教皇です。理由はマタイの福音書に記載があるようですので、興味があれば読んでみてください。教皇は更に勢力を拡大するため、ペトロの子孫をやめて「キリストと対等の存在」を名乗りはじめます。キリストが禁じた偶像崇拝もキリストと同等の教皇がOKすれば問題ないのです。そして三位一体、キリストは神と同格になりましたのでキリストと同等である教皇は神のレベルに到達しました。今の日本でこんな新興宗教が出てくれば国を挙げて抑制されそうです。カトリック教が台頭したのは5世紀の頃でした。

 

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しかしそれでも教皇は国王ほどの権力を持ちませんでしたが、徐々に国王の力までも圧倒するようになります。有名なのは11世紀に起きたカノッサの屈辱です。神聖ローマ帝国の国王ハインリッヒが教皇に破門され、その許しを請うためにカノッサ城門で雪の中、裸足のままで4日間も断食をして祈り続けたという事件です。教皇と国王の上下関係逆転です。

 

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ハインリッヒが破門された理由は、国王が各教会の司教を任命したからで、それに怒った教皇がハインリッヒ王の破門と皇帝権の剥奪を宣言したのです。ここで皇帝権という言葉が出てきますが、跡継ぎは王家が決めるものであり教会が決めるものではありません。しかし教皇が皇帝に戴冠するという事はよくありました。それでも決して教会が皇帝よりも上という状況にはなかったのです。事実、ハインリッヒは教皇に許された後で反撃に出て教皇を追放してしまいます。カノッサの屈辱とは20世紀になって反教会を打ち上げたビスマルクが「屈辱だ」と言い始めたから「カノッサの屈辱」という名称になったようです。そしてカノッサの事件から一つのキリスト教派閥(カトリック)のトップ=教皇が諸国の国王を上回る権力となったのです。

 

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当然のことながら他のキリスト教派閥は今でも教皇をキリスト社会のトップとは認めていませんが、カトリック系の信者が今でも多い事には驚かされます。カトリックの異常性については今後の一つのテーマになります。この教皇と国王の関係は天皇家と時の支配者、例えば江戸幕府などに似ているような気がします。正確には明治以降戦前までの天皇家と政府の関係に近いでしょうか。またキリスト教の国全体に影響を及ぼすという意味で中国の冊封と海外諸国の関係とも似ているような気がします。いかがでしょうか。

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2015年12月25日 (金)

世界の歴史を少し正確に理解する カロリング朝フランク王国

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重要な事としてピピン3世はメロヴィング朝を継承した王ではありません。王宮の人事官、宮宰だったのですが分割が進んでしまっていた複数のフランク王国では実権が宮宰に移っていました。まずは彼の父親、マルテルの話です。スペインを征服していたウマイヤ朝イスラム帝国はフランク王国への進出を決めます。イスラム帝国の力は圧倒的だったようですが、どうにか耐えきった(盾で防いだ)1日目の戦闘の翌朝、イスラム軍内で内紛があったのか撤退していました。しかもイスラム軍の隊長が死亡していたのです。つまりフランク王国は勝っていないのですが勝利の形になり、マルテルは勝利の隊長として英雄視されます。

 

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例えれば黒船来襲に近い状態で、イスラム帝国の圧倒的な騎兵隊に脅威を感じたマルテルは軍隊を強化、息子のピピン3世(小ピピン)が分割相続を止めて世襲化すると同時にカロリング朝フランク国を立ち上げて諸国の平和的再統合を進めます。明治維新では多くの戦闘がありましたがその中でも戦闘なしで結ばれた薩長同盟が日本統一を加速しました。王家でもない宮宰のピピン3世が外交によりフランク王国を再統合したのは素晴らしい実績ですね。強大になったカロリング朝フランク王国はその後、イスラム帝国をスペインから外に出しませんでした。この時期、スペインでキリスト教の文化遺産が破壊されてしまいます。パリやローマが占領されていればヨーロッパの世界遺産は半減していた事でしょう。ピピン3世の息子、カール(フランス風にはシャルル、英語風にはチャールズ、ポルトガル風にはカルロス)大帝は「ヨーロッパの父」とまで呼ばれます。その理由の一つがカトリック教を国内で強要し、収入の10%を教会に収める事を決めたのです。つまりヨーロッパに一つの強大なキリスト教国ができました。フランス、イタリア、ドイツの全域を支配したカールですが、ローマの近辺にローマ教皇領というエリアを作りました。中心はもちろんバチカンです。

 

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国が大きくなりすぎると必ずと言っていいほど分裂します。交通網の無い時代ですから広いヨーロッパ全体を統治するのは不可能に近いですね。東ローマと西ローマが割れたようにフランク帝国も分裂します。なぜ分割したのか、またもやフランク人伝統の「分割相続」で内紛があったのです。結果として今のフランスへと姿を変える西フランク王国、神聖ローマ帝国となった後にドイツになる東フランク王国、正統王(?)ロタールが率いるイタリアとその北部を支配した中フランク王国、南部は将来イタリアになります。

 

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フランク王国が滅んだのは10世紀ですが、滅んだというより王権の交代です。ヨーロッパの原型はフランク王国が作り、その支配範囲にカトリック教を強要したのがカール大帝であると整理します。

 

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2015年12月24日 (木)

世界の歴史を少し正確に理解する メロヴィング朝フランク王国

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名前を見てわかる通り、将来はフランスになるフランク王国、ただし最初はオランダやドイツ北部あたりに西暦485年頃建国された小国でした。その後巨大国家になり、フランス、ドイツ、イタリアまでのスペインを除くほぼすべてのヨーロッパを占領します。このフランク王国は将来3つに分かれ、フランス、イタリア、ドイツの原型となります。ゲルマン人の主役部族の登場と言えます。中でもカール大帝は有名です。ドイツになぜ「フランクフルト」があるのか、地理で少し不思議に感じていたのですがこれでやっとわかりました。

 

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フランク王国は481年に建国され400年も続くのですが、途中で何度か変化があります。今回は最初に発生したメロヴィング朝フランク王国を見てみます。ゲルマン系フランク族の中のサリー支族(ややこしい…)のクローヴィス王がアリウス派を改宗しカトリックを国教として建国します。つまりローマとは敵対しない親和国としてフランク王国が生まれたのです。西ゴート族から現在のフランス領域を奪い、大きな国になりました。ただしフランク人の相続には大きな特徴がありました。日本では長男が家督を継ぐのが一般的でしたね、次男坊などは不公平に感じた事でしょう。ゲルマンでは分割相続です。公平ですね、ただ領地まで分割する物ですから国が細分化されました。これでは国が小さく弱くなるばかり、フランク王国のひとつであったアウストラシアのカロリング家が世襲制を始めたことでやっと再統一に進むのですが、カロリング朝については次回です。

 

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相続面での弱点にかかわらずメロヴィング朝は300年近く続きます。カロリング朝はフランク王国を再統一しただけで、民族としては変わりません。室町時代から江戸時代、でもどちらも日本人のパターンと同じです。ただヨーロッパに今でも小さな国が残っているのは、この分割相続というシステムの影響と考えられます。小国から統一王国に代わった理由は明治維新に似ています。彼らにとっての「黒船」はイスラム国です。スペインを領土に収めたウマイヤ朝イスラム帝国をフランク王国がトゥール・ポワティエの戦いで撃破、ここで止められなければヨーロッパはキリスト教ではなくイスラム教になっていたでしょう。その英雄マルテルの子、ピピン3世がカロリング朝としてローマ法王から戴冠するのです。そしてフランク王国を再統一します。

 

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ローマ法王としては「よくやった」という事だったのでしょうね。

 

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2015年12月23日 (水)

世界の歴史を少し正確に理解する 北アフリカとヨーロッパの一体性

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古代から中世初期の地中海周辺を見ていますと、ヨーロッパとアフリカという大陸による地理的分け方はわかりにくいと感じています。メソポタミアは問題ないとして、北アフリカを含む地中海文化とガリア・ゲルマン地域(つまりヨーロッパ北部)で分けたほうが良いように感じています。個人的にはハン族やゲルマン人が移動を始めたのは気候変動を疑っていますが、単なる個人的な予想にすぎません。「何が主要原因かはわからない」のですが民族は地中海周辺、もしくはヨーロッパの西側に集まり始めています。なお地中海沿岸にはトルコやイスラエル、地中海の諸島に加え北アフリカを含みます。

 

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ヴァンダル族はゲルマン人ですが、カルタゴ、つまり北アフリカのチュニジアあたりに移動してきて国を作ります。現代、アフリカとヨーロッパに大きな境界を感じるのは宗教、正確に言えばイスラム圏とキリスト教圏という大きな壁があるからです。サウジアラビアで始まったイスラム教とその拡大戦略(ジハード)は北アフリカを占領し、今でもエジプト、リビアなど北アフリカの大部分の国はイスラム圏です。イスラム圏は8世紀には北アフリカに進出し、そこから地中海を渡って北上し、スペイン(西ゴート)にまで攻め上がります。しかし大英帝国の時代にエジプトがイギリスの植民地であり、アフリカの大部分がフランスの植民地であったことは有名です。今、ヨーロッパの歴史を見ていますが北アフリカもヨーロッパ圏と一体として見ておいた方がよさそうです。

 

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ゲルマン人のヴァンダル族が435年に北アフリカに建国したヴァンダル王国は100年ほど続き、その後東ローマに滅ぼされます。西ローマが滅んでいるので「東」という地域修飾にあまり意味が無い東ローマ帝国ですが、コンスタンチノープルから再び勢力を回復し、東ゴート王国やヴァンダル国など地中海沿岸を支配します。ここで地中海対ガリアの戦いになってきます。ゲルマン人のフランク王国と東ローマ帝国の戦いです。

 

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そのフランク王国という中世ヨーロッパから現代まで続く主役に目を向けておかなければいけませんね。

 

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2015年12月22日 (火)

世界の歴史を少し正確に理解する 西ゴート王国と東ゴート王国

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西ゴート王国は375年に移動を開始した西ゴート族が415年に建国します。現在のスペイン、ポルトガル、フランスの大部分に及ぶ大国でした。この国は300年程続き、日本で平城京ができたころに滅亡します。なぜローマ帝国は自国領土内に西ゴート族の建国を許したのか、ハン族に追われた西ゴート人は、ローマを占領しました。困った西ローマ皇帝の説得に応じてローマからガリア、ヒスパニアに移動して建国したのです。西ゴート王国の首都は現在のフランスの中部から南部寄りにあるトゥールーズです(当時は名前が違います)。その後、他の部族を倒して領土を拡大、友好関係にあった西ローマ帝国が滅亡した後はイタリアに建国していた東ゴート王国との友好関係を築きます。

 

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西暦500年を超えるとフランク族に敗れて西に追われイベリア半島(ピレネー山脈の西、現在のポルトガルとスペイン)に拠点を移します。711年にはイスラムのウマイヤ朝がアフリカからジブラルタルを超えて侵入し、敗北して滅亡するのですが、イスラム王国についてもう少し先に勉強します。重要なのはローマ帝国との友好関係であり、結果としてキリスト教を国教とします。当初はキリスト教のアリウス派でしたが、その後カトリック派に「改宗」します。少し思い出せばこの二つの宗派の違いはイエスを神と扱わないか扱うか(三位一体)という点が大きな違いでした。つまりアリウス派は純粋なキリスト教であり、カトリックは既に旧約聖書、イエスや使徒の言葉とには従っていない別の宗教でした。特にイエスは偶像崇拝を絶対に許しませんが、カトリックは十字架など偶像崇拝で代表的な宗教です。またカトリックは神(ヤハウェ、ゴッド)と聖霊やイエスを同格にしてしまいました。ユダヤ教やイスラム教の人たちが怒る気持ちもわかります。キリスト教、いえカトリック教はこの頃から勢力範囲を広げ支配力を強めています。庶民は領主と教皇という二人の支配を受け始めるのです。代表的な事件である「カノッサの屈辱」は11世紀の話ですが6世紀ころから徐々にカトリック支配がはじまりつつあったと言えそうです。

 

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一方、東ゴート王国は西ローマ帝国が敗れた後、東ローマ帝国との同盟により497年にイタリアの地に建国しました。西ローマ帝国の親衛隊長だったオドアケルがクーデターで西ローマ帝国の宰相となり東ローマ帝国にも侵入しようとします。東ローマ帝国は東ローマの近辺に住んでいた東ゴート族にオドアケルの討伐を依頼し、その見返りとしてイタリア地域への建国を許したのです。東ローマ帝国としては東ゴート人の追い出しとオドアケルの脅威排除の二つを同時に解決したのですから大成功です。

 

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東ゴート王国は50年ほどしか続きませんでした。東ゴート王国を滅ぼしたのは敵対していたフランク王国ではなく、東ローマ帝国です。王位交替の時期をついて攻撃したのです。誰が味方で誰が敵かわかりませんね。

 

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2015年12月21日 (月)

世界の歴史を少し正確に理解する ゲルマン人の整理

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ゲルマン民族という大雑把なくくりでヨーロッパの歴史がわからなくなり、結果として世界史が苦手になったような気がしています。ゲルマン人の整理をしておきます。

 

彼らは「ゲルマン語派」と言われる言語体系を持った部族の集まりです。少し乱暴に言えば、日本語とハングルは同じ言語体系でありますが、同じ部族かといえば大違いです。ゲルマン人の多くの部族は仲間でも関連性もない、どちらかと言えば敵対的であり、それぞれの部族が国を作り戦争をするのです。「同じ民族同士で戦争するなんて」という誤解もここから生まれます。

 

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ゲルマン人(ジャーマン人)という表現からドイツ人と混同されますが、これも間違いです。中世のゲルマンはゲルマン地域を指しますし、今でもドイツ人をゲルマン人(Germany)と呼んでいるのは英語圏の人達だけ、ヨーロッパの各国ではドイツという名称を使います。ゲルマンはローマ帝国が現在のドイツ北部、デンマーク、スカンジナビア半島南部(黒海あたりまで)をゲルマニアと呼んでいたことが起源のようで、ドイツと呼びたくないイギリスがジャーマンと呼んでいるだけです。

 

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どのような部族がいたのでしょうか。東の地域に住んでいたのは西ローマに進出した東ゴート人と西ゴート人、アフリカやスペイン南部に進んだヴァンダル人(アンダルシアの語源)、フルンクト人(別名ブルゴーニュ人)、西の北海近辺にはアングロ・サクソン人(今のイギリス人)、バルト海近辺にアングル人等です。北つまりスカンジナビア半島近辺にはノルマン人(将来のヴァイキング)など。全ての民族が移動したのではなく、最初はハン族に襲われてローマに庇護を求めたゴート人が移動します。その後、西ゴート国の建国がローマ帝国に許された事を知った他の部族がローマ帝国に移動を開始、東ゴートは現在のイタリアに、アングロ・サクソンはイギリスに移動します。ただ現在の国々と各民族が11で結びつくものではありません。ここでわかるのは「何とか諸島が日本固有の領土」と言われてもヨーロッパは共感できないでしょうね。ヨーロッパ諸国には固有の領土という概念さえないのです。

 

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ヨーロッパに住んでいたケルト人(ガリア人)はどこに行ったのか。これも混乱の原因ですが、ケルト人とはケルト語を話す複数の民族です。ゲルマン民族に押されて諸島部に押し込められたと勘違いしていましたが、もともと諸島部住んでいたケルト人にゲルマン民族の支配が及ばなかっただけです。大陸部のケルト人は差別を受けながら下級階層として支配され、次第にゲルマン系の言葉を話すようになりますがアイルランド、スコットランド、ウエールズなどにケルト言語が残っています。「あれ?イギリスなので英語では?」と不思議に思いますよね。イギリス人のケルト系の友人(すごい美人)が「ケルト語を学んでいるがうまく話せない」と言っていたことを思い出しました。現在でもいくつものケルト言語があります。ケルト語体系の言葉を使える人はアイルランドで10万人程度、ウエールズで20万人程度と全部で多くても100万人程度、しかも複数の言語が存在します。ただケルト言語が残ったおかげでケルト独自の神話や宗教が失われませんでした。言語として絶滅危機にあるのは間違いなく、イギリスという小さな島が抱える問題です。日本でもアイヌ語や琉球語があり、特にアイヌ語は絶滅危惧言語に指定されています。他人事ではないですね。

 

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2015年12月20日 (日)

世界の歴史を少し正確に理解する ゲルマン民族とは

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ゲルマン民族ではなくゲルマン人と呼ぶべきだそうです。ゲルマン人は中国人、東南アジア人などと同じく多民族です。大きな流れで言えば東の黒海あたりからハン族が流入し、押し出されたバルト海近辺の民族群がケルト系やラテン系の民族が住む西ヨーロッパに移動を開始します。最後に西ローマ帝国が崩壊するのですが、その過程を少し細かく見ておきましょう。ゲルマン人に分類される東ゴート人がフン族に押されオーストリアやハンガリー近辺の東欧に移住します。この移動開始時期が375年でありゲルマン民族大移動の年号として覚えましたが意味はありません、移動は始まったばかりです。

 

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ハン族と東ゴート人に押し出された西ゴート人はローマに移動します。ローマに来られては困る西ローマ帝国は418年に現在のフランスからスペインの南部に西ゴートの建国を許可します。西ゴートの建国を見た他のゲルマン人もヨーロッパに移動を開始します。北アフリカ、元のカルタゴのあたりにはヴァンダル王国、フランス北部にはフランク王国、アングロ=サクソン人はイギリスにわたり7王国(将来のグレート・ブリテン)を築きました。これらの国々が西暦400年ころから西ローマの領土を侵食し、476年に西ローマは滅亡します。西ローマを滅亡させた武将はオドアケル、彼は西ローマを滅ぼした後、東ローマのコンスタンチノープルに向かったのですが東ローマに討ち滅ぼされます。

 

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このオドアケル討伐軍として東ローマ帝国が使ったのは最初にヨーロッパに移動してきたゲルマン民族、東ゴート人でした。彼らはオドアケルを倒しイタリアに東ゴートの国を作ります。このようにしてゲルマン人の各民族はヨーロッパに小国を作りました。これが紀元5世紀中盤から後半です。ローマ帝国はトルコあたりにありヨーロッパには存在しません。ヨーロッパは一部を除いてほぼゲルマン民族に占領されたのです。多くの国ができたため、ここから「覇王」を目指す戦闘が繰り広げられ、多くは67世紀に消えていくのです。ゲルマン(ジャーマン)民族はドイツというより現在のフランス、イタリア、スペイン、イギリスに到達しました。ドイツとゲルマンにあまり強い関係がなさそうであり、ここにはイギリスの悪意があるのですが後日の話題にします。

 

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ちなみにハン族は西への移動を止めずゲルマン民族に分け入り、西ローマ帝国と対立して破れました。藩族との戦いで西ローマの戦力が奪われて滅亡の原因となったのかもしれません。

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2015年12月 5日 (土)

世界の歴史を少し正確に理解する 中世の時代へ

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世界はヨーロッパの歴史を基準にしますし、私にとっても西暦がわかりやすい、和暦や中国歴はわかりません。今年が平成何年なのかさえ時々わからなくなります。中世の開始はヨーロッパの大変革であるゲルマン民族の大移動を境にするようで、中国は無視です。ヨーロッパ社会が民族的に大きく転換した時代であり、確かに一つの時代の終了です。ただこのゲルマン民族の移動は200年近く続いているので、もう少しわかりやすく区切れば西ローマの滅亡が古代の終焉と言えます。中世は西暦400年頃からという印象です。

 

 

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ハン族とゲルマン民族の移民で中世が始まったヨーロッパや中国は「国名覚え直し」状態となり、とても迷惑です(笑)中東にはいよいよイスラム教が登場します。中国は隋、唐など日本との関係が強い国が出てきます。日本もやっと世界の歴史に名前を刻みこみます。5世紀頃から大和時代、奈良時代、平安時代と進んでいきます。日本の歴史と対比できるのでわかりやすくなります。満州には高句麗、朝鮮半島には新羅ができています。

 

 

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一方で中世の終わりはどこでしょう。次が近代という事なので、近代の始まりはいつなのかと質問を置き変える事もできます。日本で近代と言えば明治時代になってしまうかもしれませんが、世界史は長いのでもう少し前で区切りを付けなければいけません。中国は元の時代への突入が大きな転換点となります。ヨーロッパは切れ目が難しいですね。わざわざ切る必要もないのですが。1500年位がターゲットでしょうか。日本では戦国時代の突入、応仁の乱まで位が中世となります。

 

 

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それではもう一度中世開始の転機となるゲルマン民族の移動を整理しておきましょう。

 

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2015年12月 4日 (金)

世界の歴史を少し正確に理解する ゲルマン民族の大移動 その3

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ほとんどの世界的戦乱は気候変動が起因と疑っています。第一次世界大戦はヨーロッパの寒冷化が原因という説があります。4世紀には安定化していた晋や西ローマ帝国が滅ぶほど大民族移動が発生して、中国では混乱期に入り、ヨーロッパも混乱の中世に入るのです。特にハン族やゲルマン民族の移動は故郷を放棄した民族移動であり、領土の拡大を目的としていません。ものすごい理由と覚悟がなければ故郷を捨てて民族全員が移動することはありえません。理由とは「生きていけない」砂漠化や寒冷化です。

 

 

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宗教戦争が起こる前の時代、人が移動し命を懸けて戦争するのは「食の枯渇」が原因と考えています。食を枯渇させる原因は寒冷化と砂漠化です。温暖化が原因で戦乱になったという歴史は今のところ見当たりません。食べ物がたくさんある時、人は本能として戦争しなくても生きていけるからでしょうね。

 

 

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人が困った時に発生するのが救世を求める宗教ブームです。キリスト教はローマ帝国の圧政に苦しめられ、キリスト教徒の90%が減るような過酷な迫害に救済を求めます。西暦300年頃にローマでもキリスト教が広がり、いよいよ国教化に進むのです。

 

 

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ゲルマン民族の移動とキリスト教の勢力拡大は並行して見ていきます。

 

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2015年12月 3日 (木)

世界の歴史を少し正確に理解する ゲルマン民族の大移動 その2

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「インド=ヨーロッパ語族」と言いますが、インド人もヨーロッパ民族もどちらも祖はアーリア人と考えられています。ただしゲルマン人=アーリア人かどうかは議論があるようです。ちなみにハン族は「ハン」ガリーにまで到着し定着し、ブダ城はハン族の王の名前から付けられています。ハンガリーの人々はモンゴル系の顔ではないのですが、日本人同様蒙古斑があるそうです。

 

 

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ハン族に追い出されたゲルマン民族が200年程度で西ローマ帝国全域を覆い、原住民族を崩壊させたのです。この民族入れ替えの時点をもってヨーロッパ史は古代と中世代を分けるようです。困ったことに西ローマの人たちは逃げる場所が無い、西に向かうと大西洋にぶつかってしまいます。その為、島、つまりアイルランドやアイスランドに逃げ延びたようです。

 

 

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もちろん大部分の人たちは東ローマに逃亡するかゲルマン人、インド=ヨーロッパ語族の人たちに吸収されますので絶滅したわけではありません。ラテン民族による東ローマは巨大帝国のままです。ヨーロッパ北部で大混乱が起きた時、南に下らず西に移動する玉突きが発生しています。つまりヨーロッパ北西部は寒冷化していない暮らしやすい場所だったと考えられます。

 

 

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そうするとやはりモンゴルの気候変動は乾燥化、ゴビ砂漠の拡大が民族移動の主原因かもしれません。楼蘭という都市をご存知でしょうか。タリム盆地にありロプノール湖が干上がったことで消滅した都市です。楼蘭が消滅したのはゲルマン民像の移動と同時期の4世紀なのです。

 

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2015年12月 2日 (水)

世界の歴史を少し正確に理解する ゲルマン民族の大移動 その1

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歴史で学んだ「ゲルマン民族の大移動」、地理を無視した局地的歴史表現、言葉で覚えた単語、全体像が全く見えていませんでした。こんな事だから世界史が好きになれなかったのでしょうね。反省しております。ゲルマン民族を含めたユーラシア大陸全体の変化を見ておきましょう。

 

 

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ゲルマン民族の移動は心太式です。中国で375年前後に匈奴というモンゴルからの民族が南下し、「晋」を追いやって五胡の時代となります。匈奴という民族はモンゴルに住むいくつかの民族を大くくりでまとめた「北の野蛮人」的民族名です。例えば日本は「東夷」の中の「倭」民族でした。匈奴にもいくつかの民族が含まれており、その一つが「ハン族」ではないかという研究がすすめられています。

 

 

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西暦300年頃、モンゴル一帯にゴビ砂漠の拡大や気温の低下など気候変動があったと勝手に想像しているのですが、ハチの巣をつついたようにモンゴルから脱出しはじめます。一部が中国に向かい五胡となり、一部のハン族が西に向かったのです。地図を見るとわかりやすくて南のインドにはヒマラヤ山脈があり移動できません。ペルシアにはパルティアという強国があり制圧されたのではないでしょうか。中国ルートとカスピ海を北に迂回する東ヨーロッパへのルートは成功でした。

 

 

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東ヨーロッパに押し寄せてきたハン族に追いやられたのがゴート族でありゲルマン民族の一派です。ゲルマン民族は読み方を変えればジャーマン民族、英語ではドイツ人になります。もともとは黒海周辺にいた民族が移動してローマ帝国を避けるように北ヨーロッパ(ガリア)に広がり、ドイツ、イタリア、スペインまで到達します。彼らは将来、フランク王国となります。

 

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2015年12月 1日 (火)

世界の歴史を少し正確に理解する ローマ帝国の分裂

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4分裂と言いますが実質は西と東の2分裂です。正副二人ずつ皇帝がおり、合計4人の皇帝で統治しました。対立による分裂ではなく、国土が広すぎるので一人で統治できなくなって分割しただけです。西ローマがイタリアから西、東ローマがギリシャから東というイメージです。この頃になってもキリスト教は弾圧されているのですが、すでに大多数のローマ住民がキリスト教になっていました。

 

 

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コンスタンチノープルに名前が残るコンスタンチヌス帝はついにキリスト教を公認します。ただキリスト教だけではなく、すべての宗教を公認したようです。キリスト教には多くの派閥ができていたので取りまとめる事にしました。その「公会議」でアタナシウス派を正当とすることになりました。これがカトリック派閥で、将来は各国の王より強い権力を持つようになるのです。

 

 

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コンスタンチヌス帝は遷都を行います。コンスタンチノープル、今のイスタンブールです。現代のトルコはイスラム圏なので不思議に感じてしまいますが、ローマ帝国は大きかった、コンスタンチノープルも東ローマの中央あたりに位置する都市でした。コンスタンチノープルはヨーロッパとアジアをつなぐ関門であり、黒海からの出口にもあたる四差路です。周辺国ににらみを利かし、統治するには絶好の場所です。ササン朝ペルシア対策と言えるかもしれません。

 

 

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さてこの後も東ローマ帝国はまだまだ続くのですが、西ローマ帝国には侵略者の影が近づいています。ゲルマン民族です。

 

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