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2015年5月 7日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 薩長同盟

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坂本龍馬が有名になりすぎて、過大解釈されているのが薩長同盟です。薩摩も長州も「一緒に幕府を倒そう」とは言っていないのです。そんな条約を幕府派である薩摩の島津が飲むはずもありません。つまり少なくとも表向きは倒幕同盟、尊王同盟ではないのです。

 

薩長同盟は大胆に解釈をすれば、長州が会津藩に敵対する事に対して薩摩藩は邪魔しないし物資を支援するというものです。これは例え幕府や朝廷が長州藩を処罰すると判断した時でも効力を失わない条約です。薩摩藩が倒幕の先頭に立つような条文ではなかった事で同盟を結んだのです。

 

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冷静に考えれば長州が同盟を結んだことには違和感がありません。沈みかけた船、もうどこの半でもいいという状態だったはずです。長州が禁門の変で「薩賊会奸」と言い始めてからまだ1年ほどしかたっていない、怒りは収まっていないのです。しかし長州から助けてくれと言い出さなければ、長州にとってのみ利益がありそうな条約など成り立つはずがありません。50100歩と言いながら、長州の恨みは薩摩より圧倒的に会津藩に集中していました。会津を倒すならば敵の手も借りたい、武器も欲しい、会津藩を敵国に想定する事で長州は薩摩と手を結べたのです。たとえ長州藩でも「倒幕」を明文化すれば躊躇したでしょう。ここが坂本龍馬や中岡半太郎の作戦の素晴らしさと言えます。「尊王」とか「倒幕」とか、不穏な空気は全く感じさせない会津藩を倒すための条約なのです。

 

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なぜ薩摩藩が条約に同意したのか、こちらは難しいですね。薩摩藩にとっては何のメリットもないように感じます。事実、1度目の会合に薩摩藩は現れず、2回目の会合で条約は結ばれます。薩摩藩も内部構造に大きな変化がありました。禁門の変までは倒幕より公武合体論だったのですが、西郷隆盛と大久保利通が主軸になり改革強硬思想に変わっていたのです。藩主の島津をだましつつ(というのは個人的な見解ですが)長州藩や土佐藩と一緒になれば幕府を倒せるのではないかと感じていたはずです。また幕府は無力化しており実質会津藩が本体とわかっていました。薩摩は幕府の中心で権力はふるえない、あくまで外様大名でした。幕府についても利益はありませんし、会津藩の下請け的な立場になっており苛立ちがあったでしょう。土佐藩所属の海援隊は株式会社に近い形をとっており、薩摩藩に出資を受けていました。坂本龍馬は薩摩藩から強い信頼を得ていたと考えています。

 

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薩長同盟では坂本龍馬の名前が目立ちます。しかしながら先に土佐藩や薩摩藩を訪れて話をしていた人物がいました。高杉晋作です。彼が薩摩とどのような話をしたのか知りませんが、彼がいなければいくら坂本龍馬が説得しても薩長同盟は無かったのでしょう。高杉晋作という人物のカリスマ性は私たちがイメージしているよりはるかに大きいと感じています。彼が長州のイメージを改善し、倒幕は可能であるとの印象を植え付けていたのでしょう。第一次長州征伐で内戦まで起こした高杉が第二次長州征伐では最重要人物に抜擢されている事からも、よっぽど人に好かれる人物だったのでしょう。彼が病死さえしなければと悔やまれます。彼の死因は肺結核です。現代でも発展途上国では何十万人もの人が肺結核で亡くなっていますし、一時は日本が肺結核で滅びるのではないかと言われ「亡国病」と呼ばれたそうです。この時期には海外から持ち込まれたコレラも蔓延し、若年層の病死率は戦争による死者よりはるかに多い時代でした。高杉晋作は第二次長州征伐が終了して半年ほど、わずか27歳にて没。選挙権は18歳になりましたが、被選挙権ももっと若くてもよさそうです。日本を救うのは若者の活力、明治維新が証明しています。

 

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