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2015年5月 8日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 第二次長州征伐

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18667月に広島まで出陣していた徳川家茂が病死し、その後12月まで将軍職空位となり統制が乱れた事は幕府軍敗戦の一つの理由です。空位となった理由は最前線にいた一橋慶喜が将軍への着任を断ったからです。しかし第二次長州征伐は長州の軍事的勝利であり、徳川家の将軍が誰であっても勝敗には関係が無かったでしょう。

 

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戦闘は18666月から半年ほど続いています。勝敗を決めたのは幕府軍の主力、薩摩軍が出陣しなかった事、また戦前に長州がイギリスから大量の武器購入に成功していた事です。この戦争では高杉晋作、山縣有朋、大村益次郎など西洋軍隊の指導者が陣頭に立っており、戦国時代の武将を率いる幕府軍では勝てません。小倉での敗退が幕府軍をしり込みさせました。薩摩以外にも出兵しなかった幕府側の藩は多く、時代の流れを察していたと考えています。

 

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この時の幕府軍は松山藩や小倉藩が主軸で、会津藩の姿が見えません。幕府は長州をなめていたのかもしれませんが薩摩を頼りにしていたことも間違いないはずです。細川家の肥後藩は幕府側として大活躍するのですが、幕府軍の弱さを感じたのか途中で撤退します。

 

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大政奉還は長州征伐が終わって1年もたたずに行われました。ただし奉還しても徳川家は支配に何も変化なかったようです。変化があったのは大政奉還の2か月後に行われた薩摩藩のクーデター、王政復古の大号令です。このクーデターは別の機会に勉強します。幕府が長州に負けた事で多くの藩が行動を起こし始めます。ちょっと脱線してから、大政奉還に向けた土佐藩の動きを見ていきます。

 

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