« 日本の歴史を少し正確に理解する 馬関戦争 | トップページ | 日本の歴史を少し正確に理解する 桂小五郎 »

2015年5月 2日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 禁門の変

Osk0006

蛤御門の変と言った方がわかりやすいですね。明治維新の銃弾の跡を見るために京都御所の蛤御門には何度か見学に行きました。触れなければいけないのは会津藩、薩摩藩と長州藩の確執です。特に会津と長州の戦いは明治維新の終焉まで繰り返され、今でも市民に確執が残っているとテレビ番組で取り上げられます。ただテレビのインタビューを見る限り、気にするほどの確執は残っていないようです。長州藩と会津藩が「敵国」となった主因が禁門の変です。個人的な見解ですが、長州藩は尊王攘夷という思想に実直で、吉田松陰の思想を体現する組織です。気持ちが良い組織とも言えます。松平、会津藩の戦略はいかにも戦国期から大坂の役までの徳川の戦いを見るようです。「勝てば官軍」会津藩は明治維新の敗者であり、最終的には朝廷の敵として扱われ、歴史でも悪者の評価となりました。楠正成の評価が時代によって大きく変わる様に、私たちは明治以降の教育の中で会津藩が嫌いになるような印象を植え付けらえている恐れがあります。徳川家を守り公武合体説という志を貫いていた会津藩も明治維新の徒ですし、公武合体論自体も一つの消極的な尊王思想で、時代のゆがみの解決策でした。

 

Osk0001

禁門の変では会津藩が勝っています。「尊王思想」を元に最初に天皇家に近づいたのは久坂玄瑞率いる長州藩であり、朝廷を支配します。もう少し正確に言えば徳川に権力を奪われている天皇も尊皇派であり長州よりでしたが過激すぎる点に懸念は持っていました。馬関戦争で長州の弱体化を見極めた会津藩が朝廷内でクーデターを起こします。長州は敗退して撤収、七卿落ちとして有名です。ここで会津藩と薩摩藩が朝廷と結びつきます。このクーデターに怒った長州の藩士が集まり襲撃を考えていたところ新選組に攻撃されます。有名な池田屋事件です。新選組は会津藩が作った組織とも言えますが、会津藩は松平、つまりが徳川家なので幕府の組織とも認識されています。ただ長州は幕府にではなく「会津にやられた」と感じたのです。

 

Osk0005

長州の朝廷奪還戦争が禁門の変です。長州が敗退して撤退する時に火を放ったため3万戸の家屋が焼失し、多くの死者が出ています。禁門の変については記載している小説などが多いため詳細は割愛しますが、長州藩が天皇家を会津藩から取り戻そうとして失敗した戦争です。この時に薩摩藩も会津側として参加しているため長州と薩摩の確執も深まります。薩摩と長州は坂本龍馬の手で同盟を結びますが、会津藩とは鳥羽伏見の戦いまで続きますから明治以降も確執として残る事になります。ちなみに吉田松陰の一番弟子でもある久坂は禁門の変での挙兵に反対したようですが抑えきれず、敗戦後に自害しています。一方で高杉晋作や桂小五郎は隠匿します。

 

Osk0004

長州はここで敗退、朝廷という後ろ盾を無くし長州征伐へと発展していきます。ご存知の方が多いと思いますが、徳川はこの長州征伐にまけるのです。なぜ負けたのか、重要な薩長同盟、桂小五郎、西郷隆盛、坂本龍馬などの出番です。大村益次郎も出てきます。そう明治維新がいよいよ始まったというか、大詰めに来たというか、時代が変わる節目に来ているのです。禁門の変以降、長州には「薩賊会奸」という言葉が生まれ、薩摩と会津は長州の恨みが向けられることになります。その薩摩と長州が同盟を結ぶのですから驚きですが、薩長同盟の後、恨みはすべて会津に向いてしまうのです。明治維新は戦争が無い革命と誤解されますが、実際には禁門の変、長州征伐、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争などで大量の死者を出します。「江戸城の無血開城」が誤解の原因であると同時に、徳川家にほとんど血が流れなかった事も事実でしょう。長州藩は多くの志士を失い会津藩は壊滅する、その戦いがいよいよ始まろうとしています。

 

Osk0002

« 日本の歴史を少し正確に理解する 馬関戦争 | トップページ | 日本の歴史を少し正確に理解する 桂小五郎 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本の歴史を少し正確に理解する 禁門の変:

« 日本の歴史を少し正確に理解する 馬関戦争 | トップページ | 日本の歴史を少し正確に理解する 桂小五郎 »

フォト
無料ブログはココログ