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2015年5月

2015年5月31日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 大日本帝国憲法

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日本国憲法さえも十分に理解していない私が大日本帝国憲法など全く理解しておりません(笑)日本国憲法もアメリカに与えられたといえ日本国民が作ったとは思っていませんが、わかりにくい文章はあるものの悪い憲法とは思っていません。一方で大日本帝国憲法は長州藩が主導となって作った尊王論に基づいており、大きな問題が含まれている事は誰もが知っています。それでは具体的に何が問題だったのでしょうか。

 

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大日本帝国憲法は1889年(明治22年)プロイセン、つまり現在のドイツのビスマルク憲法を参考に作成されました。福沢諭吉など長州派閥以外はイギリス憲法を参考にすべきと説いていたのですが、長州に負け落胆し下野します。大日本帝国憲法をまとめたのは枢密院ですが、今では聞きなれない組織名ですね。枢密院は内閣政府がありながら日本最高の天皇直属機関であり、国民には隠密に行動していた影の立法府および内閣で、初代議長は伊藤博文です。第二次世界大戦後に解散しています。

 

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大日本帝国憲法の一番の特徴として、天皇は唯一無二の元首であり、万世一系、天皇大権を持ちます。天皇大権は天皇が主権(統治権)を有する事を明確にする条文であり差別的ではありますが、江戸時代の士農工商が無くなり四民平等、在野から公務に立候補できることを明言しているので大きな前進です。つまり決して悪い原則とは言えません。他にもいくつか評価できる条文を含んでいます。言論の自由は天皇による「恩恵的権利」として認められていました。つまり法律の範囲内、天皇家の許す範囲内、もう少し拡大解釈すれば政府の許可する範囲内において言論、出版、集会の自由を認めていました。完璧な自由とは言えませんけどね。司法権も独立していましたが、枢密院にどの程度コントロールされていたのかわかりません。一番大きな変化は転居の自由ではないでしょうか。藩の垣根が無くなり、日本国内であれば自由に転居できるようになったのです。最近の地方の過疎化を見れば、もう少し地方に縛り付けてもよいような気もしますが…って、転勤族の私が言うセリフではありません。

 

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一番の問題は議会制と内閣が憲法で定義されていない事だと言われています。その為、枢密院を許し、軍部のクーデターを許し、日露戦争から第二次世界大戦につながったという議論があるようですが、この件については昭和の歴史で考えてみます。なお貴族が残り、北海道や沖縄の問題が残り、そしていまでも残る同和問題から、憲法の定義する平等は完璧ではありませんでした。今の日本国憲法は基本的人権を持ちますが、それでも差別が無くなっておらず平等が達成できているとは思えませんので憲法と差別は別の問題なのかもしれません。難しいですね。

 

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2015年5月30日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 琉球処分

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いろんなご意見があるとは思います。個人的な解釈であり正確な情報ではありませんのでご注意、ご了承ください。

 

アイヌより大きな問題を抱えているのが沖縄です。

 

沖縄にあった琉球王国は15世紀には成立した独立国家です。独自の文化、法律、言語を持っており日本とは無関係でした。言語は今でも琉球弁として色濃く残っており、日本の他の方言とは明らかに異なって通訳が必要なほどの独自色を残しています。琉球は江戸時代に薩摩の侵略を受けますが、それ以前から清との冊封関係があり、薩摩の進出後、琉球人は両方の国から搾取されていました。明治になると日本は琉球を日本の領土と勝手に宣言しますが、それでも琉球王国は存続していました。繰り返しますが、琉球王国は独立国でした。日本の領土でも中国の領土でもなかったのです。

 

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明治時代になっても清は琉球を日本の領土と認めませんでしたが、日清戦争における交渉で琉球人が日本人である事を清に認めさせます。(同時に台湾の一部も割譲しています。)おかしいですよね、琉球王国も琉球の人たちもこの交渉には関与していないのです。勝手に大日本帝国と中国で決めているのです。その後1894年に大日本帝国は反対する琉球国民を無視する形で琉球王国を廃止し、沖縄県という勝手な名前を付けて那覇を県庁所在地とします。明治維新の頃からこの琉球王国廃止、廃藩置県までを琉球処分と言います。

 

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琉球は沖縄県となり琉球人は日本国民となりましたが、長い間平等とは言えず、植民地のような扱いでした。高い税率、日本語の強要(ちなみに日本語の強要は日本全土にわたっていましたので沖縄に限った事ではありませんが、琉球は言語が根本的に違っていましたので難易度ははるかに高かったでしょう、日韓併合の状況に似ています)。その後沖縄は、第二次世界大戦でアメリカに占領され、いまでも米軍基地だらけの島になっています。沖縄の不平等は続いているのではないか、この点に関しましては私も同感です。

 

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朝鮮半島は独立を取り戻しましたが、琉球は取り戻せていません。沖縄が独立しない事に関しては不思議なくらいですが、沖縄の方たちはとても優しく穏やかで、琉球王国が無くなっても琉球の言葉や文化を絶やさず日本やアメリカと良い関係を築きながら共存されていかれているように感じます。ただし日本側の配慮は現在でも根本的に足りていません。

 

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2015年5月29日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 北海道の歴史

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いろんなご意見があるとは思います。以下は個人的な解釈であり正確な情報ではありませんのでご注意、ご了承ください。

 

明治以前の北海道、蝦夷地はアイヌの土地でした。大和民族の蝦夷地進出は江戸幕府初期に本格化し、アイヌと松前藩の戦闘が続きます。200年もかかって1807年に徳川幕府は蝦夷地を幕府直轄地と宣言しますが完全に征服できていたわけではありません。アイヌの人々は国の形を持たないものの自治を行っていました。当時の北海道は今よりも寒冷だったと考えられ、北海道のアイヌ人口は少なく2万人程度だったようです。アイヌの地を本格的に奪ったのは明治時代の屯田兵です。北海道開拓使などという名前がついていますが10万人以上の日本人、屯田兵を送ります。忘れてはいけないのですが廃藩置県が行われたと言え、当時はまだ転居の自由が認められていません。日本政府が指名した兵士と農民を兼ねた占領部隊が屯田兵だったのです。寒冷な蝦夷地に本格進出した理由は商業的と言えず、ロシアからの防衛線と考えていたのではないでしょうか。今でこそ北海道は農業大国ですが、温暖化や米や農作物の品種改良の効果です。石炭を含めある程度の資源採掘が見込めた程度だったでしょう。

 

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アイヌ民族は北海道以北に住む先住民族で、ロシアや樺太にも広がっていました。母国語はアイヌ語です。残念ながらアイヌ人は文字を持たないため、書物としての歴史が残っていません。また「国家」という認識もなく戦闘は大日本帝国とアイヌ民族になりますので現在のゲリラ戦に近いでしょうか。国の名前が無いので大日本帝国が使っていた差別的と言える蝦夷地という表現を便宜上使わせていただいています。アメリカの西部開拓、インディアンとの戦争に似ていますね。平成の現代でもアイヌ民族は約2万人、主に北海道で生活されています。誤解の無いように表現するのが難しいのですが、過去の歴史はどうであれ、アイヌの人たちも現在は日本国民であり日本国憲法で守られます。日本は単一民族国家と考えられますが、大和人、渡来人、アイヌ人、琉球人等との多民族国家であることを認識すべきです。アイヌの方たちが不当な差別を受けないようにしなければいけませんし、差別的な状態が残っていれば排除していかなければいけません。またアイヌの方たちに日本から独立したいという意思があるのであれば個人的には賛成ですし、独立した後でも日本と同じレベルの生活が保障されるべきです。

 

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現在の最大の懸念はアイヌ文化の喪失です。衣類や建物などのアイヌ文化は博物館などで保存されていますし、日本人が和服を着なくなったように衣服や住居は変化するものですから問題とは思いません。失われてはいけないのがアイヌ語です。アイヌは文字を持っていないため、アイヌ語がアイヌの歴史を内包している唯一の史料なのです。アイヌ語は日本語と違う独立した言語であり、絶滅の危機にある言語としてユネスコにより指定されています。

 

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日本によるアイヌ占領の歴史を忘れてはいけませんが、アイヌは清との冊封関係が無かったため国際問題にはなっていません。ただし北方領土の問題は未解決ですね。北方領土は日本の領土というよりアイヌの領土であり、その意識を持って交渉にあたるべきです。

 

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2015年5月28日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 明治天皇

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畏れ多くも明治天皇について説明させていただくのは、個人的に多いなる誤解をしていたからであり、正さないといけないからです。

 

明治維新の中心人物は孝明天皇ですが、維新と同時と言っていいほど年号が明治に変わります。偶然にしかすぎません。私の誤解は明治以降の軍国主義で天皇が戦争の主導者と考えていた事です。特に、学生時代は誤解していました。なぜ日本の歴史教育はこのような誤解を招く教育をしたのか、もしくは教科書ではなく共産党員だった私の歴史の教師の意志が加わっていたのか。

 

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政治の中心に座った天皇はわずかしかいません。院制を敷いて政治をした上皇はいますが、天皇は神としての役割を重んじています。主権は持つものの俗世の政治は政治家に任せ、和をもって決めた事、つまり議会決定事項を宣言するのが天皇家の役目です。戦後の象徴天皇と違い、自分の意見で宣言をするかどうか決める事が出来たのは間違いありませんが、明治時代でも和をもって貴となすという基本方針を持っていたはずであり、明治天皇が何かを指示したクーデターは見受けられません。

 

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明治天皇陛下は人間味にあふれた方であり、お子様を見ればわかるとおり国民の事を考え、平和を愛する方だったそうです。ただここで平和は現在のような国際平和というより日本の平和と考えたほうがよさそうです。明治維新は志士や政治家が進めた革命であり、軍部を活用したクーデターであり、決して明治天皇が革命に積極的に関与したとは見えません。日本の文化を愛し、質素な生活を好まれていたそうであり、子供の数は多いのですが成人した男子は大正天皇だけだったそうです。こんなことを言うと怒られるのでしょうが、とても人間味にあふれており現在の優しい表情の平成天皇の祖父ですから、おなじような優しさを持っておられたと考えています。

 

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明治天皇は明治神宮に祭られ、大裳では乃木将軍が殉職したと聞いています。これらは尊王思想を強化するために明治政府が行った神格化の影響であり、明治天皇が望まれたことではなかったと想像しています。想像で語る事自体失礼ですが、平成天皇の印象から感じる自分の感性を信じ、明治以降の戦争と天皇家を切り離そうと考えています。今後、明治時代の暗黒の歴史に触れていきますが、明治天皇とは無関係である、明治政府の責任と整理しておきます。

 

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2015年5月27日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 明治時代の年表整理

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明治維新を見てきましたが、ここで少し年表を整理しておきましょう。1871年、明治4年の廃藩置県が大きなクーデターであり、その二年後の1873年に征韓論が議論となり「明治六年の政変」で西郷隆盛と板垣退助が下野します。

 

1876年に征韓論に勝利した大日本国政府は李氏朝鮮との日朝修好条約を結び、征韓論は事実上消滅します。翌年の1877年に日本最後の内戦ともいえる西南戦争が起こり西郷隆盛は自害します。桂小五郎もこの年に亡くなっています。更に翌1878年に大久保が暗殺されて、明治維新の最期を迎えます。

 

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西南戦争から少し時期が開きまして、1885年に第一次伊藤内閣が発足します。1888年に枢密院ができ、1889年には大日本帝国憲法が発令されます。ここで明治政府、そして大日本帝国は一つの国としてまとまったと言えるでしょう。ここから日本は富国強兵に進みます。鉄や燃料が必要になってきました。蒸気機関が全盛の時代でしたから鉄と石炭が中心的な産業であり、このころの歴史遺産が、世界遺産として登録されそうですね。なお先日、富岡製糸場も世界遺産となりました。どちらも政治的な臭いがしますが喜ばしい事に違いありません。

 

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戦争の時代が幕を開けます。1894年に日清戦争と琉球処分、その10年後の1904年に日露戦争となります。1909年に伊藤博文が暗殺され、1910年に日韓併合となり大正時代に移っていきます。戦争の話に入る前にいくつかの出来事を勉強しておきたいと考えています。多少時代が前後しますが屯田兵、琉球処分、枢密院、大日本帝国憲法などが、個人的に全く理解できていないのです。

 

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歴史に正負は無いと考えています。もしくは負の歴史こそ多くの教訓を残してくれていると考えています。明治以降、現代の尺度で見れば悲しい歴史が続きますが、負の歴史ではなく高度成長の時代であり日本が世界に認められた時代でもあります。一つ一つ見ていきます。

 

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2015年5月26日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 日清戦争 はじまり

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明治維新近辺の李氏朝鮮は鎖国と攘夷を進めていましたが、肥大化した大日本帝国と不平等な修好条約を結ばされ日本との貿易が盛んになっていました。

 

ここで清との冊封(さくほう)関係について少し理解しておかないと混乱します。17世紀にモンゴルのルヌハチが明王朝を攻め滅ぼし、中国全土を支配したのが清です。つまり清は漢民族の国ではなく巨大なモンゴルの国であり、元の時代と同じです。

 

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昭和初期のアニメ、サイボーグ009で中華料理を作る中国人が弁髪にちょび髭という姿を見かけました。これはモンゴロイドのスタイルであり、清の時代には中国国民もモンゴル人の格好をさせられたようです。第二次大戦後、中華人民共和国になってから日本と中国の国交は長くとだえましたので、昭和のアニメでも清時代の中国人のイメージが残っていたのでしょう。つまり清は中国を占領していたモンゴルという印象です。今の中国がウイグルなどを過度に恐れているのは清の歴史が第二次世界大戦前まで続いていたからでしょう。漢民族、つまり中国人民による清政府への信頼は低かったのではないでしょうか、愛国心が弱ければ国は弱くなります。ちなみに清皇帝の姓は「愛新覚羅」であり、最後の皇帝の名は溥儀です。

 

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清は古くからある中国式封建制度を継承しました。直接的な支配地域、中原と今でいう「自治区」で構成されます。この自治区のような存在を冊封国と言います。冊封はその地域の自治を認めながら、その国の王族が中国の封建制度システムで政治を行うよう義務付けます。韓国や琉球は「清」、つまりモンゴルとの冊封関係を結んでいました。誤解を招かないように言っておけば、中国では中原を制したものが「中華」であり、清も中華の国であったことは間違いありません。地域名ではチャイナ、支那(しな)と呼ばれ、この地域にある国が中国です。そのため植民地ではなく、正当な中国であり人種がモンゴロイドです。

 

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冊封国は中国の封建制度の柵内にあるという意味です。植民地とは異なると感じています。納税は税金ではなく貢物の形をとります。とにかく特殊な体制なので現代の国際関係と結びつけて説明するのが難しいのですが、かなり強い中国による支配を受けていたものの独立国といえます。もちろん、その国が攻撃を受ければ清が攻撃をする同盟関係にもあります。日清戦争は冊封状態にある朝鮮半島と中国の一部をめぐる日本と清の権力争いです。気になるのは心から望んでいた冊封状態か、それともモンゴル人による支配に対する疑念があったのか私には判断がつきません。

 

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2015年5月25日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 鉄血宰相 ビスマルク

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現在のドイツ、プロイセンの首相、オット・フォン・ビスマルクは小国に分かれていたドイツを統一した人物で鉄血宰相と呼ばれました。大日本帝国憲法はビスマルク憲法を参考にしたと言いますのでどのような人物だったのか調べておきましょう。彼が鉄血宰相と呼ばれたのは首相就任時に行った演説にあります。時代はフランス革命などでいわゆる自由主義や民主主義がヨーロッパに起きつつありました。しかしプロイセンは違う道を歩みます。

 

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「全ドイツが期待するのは自由主義ではなく武力である。演説や多数決ではなく鉄と血によってのみ解決される」としました。いわゆる軍制改革、帝国主義であり日本的に言えば富国強兵策でした。小さな国家だったプロイセンは戦争を重ねドイツを統一します。ドイツはイギリス、フランス、ロシアなどの先進国により支配されていたヨーロッパにおける新興国家であり、弱い国が強国になった規範となったのです。

 

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ドイツの統一は日本維新に似ており、列強に対抗する力を一気につけたドイツには日本人も驚きました。明治の政府は岩倉などがドイツを訪れます。福沢諭吉が英語圏の国々を訪ねていたためドイツの帝国主義かイギリスの民主主義か、憲法を定める前に議論となりました。残念ながらドイツが選ばれ、日本は帝国主義を歩むことになるのですが、当時の時代を考えれば間違った判断とは言えません。戦後の現代を考えれば「間違っていた」と言えるかもしれませんが。

 

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日本の現在の繁栄はすべての過去の積み重ねです。単純に過去を批判するのは現代を否定することと同じです。つらい歴史ではありますが、しっかりと客観的に見ていきましょう。

 

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2015年5月24日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 自由民権運動

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日本には早くから民主主義が芽生えたのだと誇らしく感じる明治時代の「自由民権運動」ですが誤解のようで、彼らが目指した自由民権はヨーロッパの民主主義や現代の民主主義とは大きく異なるようです。明治時代の自由民権運動は薩長政治からの脱却が主目的で、すべての藩出身者(民)が平等の法律=憲法で議会において議論し、言論の自由や集会の自由を保障しようというものだったようです。発端は土佐藩の板垣退助が征韓論で負けて下野すると、明治政府の薩長支配が強まりました。土佐藩と言えば坂本龍馬に後藤象二郎、船中八策で議会と憲法の設立を提案した藩です。板垣退助は船中八策に立ち返り立志社を設立して自由民権運動をはじめますが、西南戦争に乗じて立志社が挙兵しようとしたので幹部が逮捕されてしまいます(立志社の獄)。

 

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つまり自由民権運動が起こったころは、議会はなく、憲法はなく、言論は弾圧されており、選挙もなく薩長閥が天皇家組織である太政大臣と共に日本を支配していました。徳川幕府より強い中央集権型の支配でした。行政を掌握していた薩長閥がすべてを決めていたのです。西南戦争の後でも自由民権運動は継続し自由党(板垣退助)と立憲改進党(肥前藩 大隈重信)ができます。彼らはイギリス的な民主主義を希望しましたが薩長閥に敗退し下野します。明治の自由民権運動は失敗に終わったのです。薩長政府はビスマルク憲法、いわゆる帝国主義を基軸にした大日本帝国憲法を制定するのです。

 

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伊藤博文総理大臣の下1890年に国民が有権者ではない総選挙が行われ、帝国議会ができますが予想通りの薩長だらけ。それでも日本には憲法ができて議会が成立したため政治議論は沈静化します。言論弾圧を持つ強力な帝国主義の国が作られてしまい、そのボスは伊藤博文でした。繰り返しますがこの時の自由民権は平和主義ではありませんし、現代のような平等も謳っていません。薩長政治よりは特権階級の範囲を広げますが、尊王思想の下で国を強くしていくという方針は変わらないのです。当時はイギリスもビスマルクも軍国主義でしたから板垣退助が選ばれていたとしても大日本帝国に大きな差はなかったでしょう。

 

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結局、この時の自由民権運動は征韓論の延長であり、天皇家を廃した民主主義など全く考えていなかったのです。ちなみに今の自民党も尊王思想に見えますが如何。

 

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2015年5月23日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 標準語

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東京の山の手言葉(高級階層の言葉)を日本の標準として「国語」を学童教育に導入し、標準語の利用を強いた国策…というのは苛烈な表現ですが、大きくは間違っていないと感じています。江戸時代は国が分かれ、文法は同じだったものの各藩の言葉は大きく異なりお互いがコミュニケーションできませんでした。今でいう「方言」です。私は広島弁でしたが大阪に来た時は方言が分からなくて困りました。和歌山に勤務した時も同じです。一方で横須賀や江戸っ子の言葉は苦手でした。標準語は江戸弁ではありません。

 

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明治維新で日本を作る前、各藩で方言を使って習っていたはずです。しかし日本政府は標準語の教科書を作り使用を義務付けました。明治時代から小学生は「サイタ サイタ サクラガサイタ」と学んだわけです。個人的に標準語の強制は悪くなかったと考えています。日本が一つの国として発展したのは標準語のおかげです。朝鮮半島においてハングルが共通語になった事も現在の韓国の発展を支えていると感じています。

 

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標準語を決めるまで日本はどうしていたかと言えば、通訳のような人がいたようです。ただ標準語に近い話し言葉があったようですし漢字は共通でした。維新の政府では長州、薩摩、土佐など特に方言がきつい国から集まった人が東京で議論をするわけですから、自然と共通の言葉、そして各藩が喧嘩にならない東京の言葉を用いた標準語の整備は自然な流れだったと感じます。薩長同盟がうまくいったのは筆まめの坂本龍馬の文章力ではないかと考えています。彼の文書は簡潔で誰もが理解できますが、土佐弁の理解は難しかったでしょう。そんな中で「国語」(National Language:国の言葉)という学問を作ったことが日本を強い国に作り替えた大きな「機能強化」だったと考えます。

 

 

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私は国語が苦手なので、人生の後半になった今になって大いに反省しています。

 

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2015年5月22日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 文明開化

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「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」文明開化と命名したのは福沢諭吉のようです。

 

文明開化は明治時代ですが始まったのは江戸時代です。1800年代の初頭にイギリスではじまった産業革命はイギリスの軍隊を強大にしました。紡績、製鉄、蒸気エンジンが大きく進歩した時代です。その情報はオランダを経由して江戸時代の日本に「蘭学」として伝わりましたが、オランダではなく欧州の技術でした。日本が劇的に西洋化を始めたのは蒸気船の能力を見せつけられた黒船の影響でしょう。

 

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幕府と長州の戦いで軍艦や武器を輸入したと同時に西洋風の軍服が導入されます。長州の奇兵隊は民間の志願兵であり、軍服を着ていたようです。西洋式の軍隊は徳川幕府に戦争で勝ったのです。明治維新後には不平等ではありましたが日本と西洋の貿易が一気に加速し、輸入だけでは足らなくなって富国強兵、つまり自国生産を始めます。西洋の品々は押し付けられたわけではなく、新しいものに飢えていた江戸時代の日本人の購買意欲に火がついた「買い物依存症的現象」と感じています。明治の初期には郵便システムが導入され、1872年には新橋横浜間に蒸気機関車が走り、富岡製糸場ができます。日本人の技術吸収速度は驚くべき速さですね。その後、すぐに製鉄所もできてきます。

 

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日本人は文明開化でライフスタイルまで変えてしまいますが日本風のアレンジを忘れません。今でも瓦を使った洋館を横浜や神戸で見る事ができますね。洋服が増え、髷はすぐに見られなくなり「散切り頭」となります。食生活が変わり肉(四足)を食べるようになります。特に海軍はイギリス料理として持ち込まれたルーをご飯にかけたカレーライスや、肉とジャガイモを煮込んだ「肉じゃが」を開発、今では国民食ですし海軍基地があった呉や舞鶴の名物になっています。

 

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西洋の人にとって日本の文化も刺激的だったようです。浮世絵など日本の工芸美術品は海外に輸出されます。そもそも歌舞伎の宣材であった浮世絵は海外で美術品と評価されました。「日本の絵画が低価格で盗まれた」という人がいますが大間違いで、日本では評価されなかった、文化だと思っていなかったのです。日本と西洋の文化交流が始まりお互いの文化を刺激しました。現代でも日本の「オタク」文化は西洋人(そして驚いたことに中国人までも)を熱狂させていますが、日本で「お宅」は長い間差別用語的に使われていました。日本人の西洋かぶれと自国の良さを見つけるのが下手な民族性は明治時代も今も変わらないようです。

 

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2015年5月21日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 戦争で見る明治の歴史

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1877年の西南戦争で国内戦は終結し、海外との戦闘準備が始まります。ヨーロッパは日本を植民地化せず経済支配で利用しようと考えました。彼らの判断は的確で、日本の軍隊は強力であり陸上軍がなければ勝てません。明治維新後、日本は帝国主義国家となり、航空機と空母が戦争を決める時代になった第二次大戦で大日本帝国軍が崩壊するまで植民地化を進めていきます。

 

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西南戦争が終わっても日本は混乱期です。自由民権運動で議会と憲法はできたものの、日本は伊藤博文支配の下、軍国主義を選択してしまいます。もちろんアジア全域で植民地戦争が続いている時代に現代のような平和主義の国を作ることなど不可能でした。この時代の自由民権運動は単に(土佐藩による)薩長支配からの脱却を目指した革命であり、明治維新の第二弾を進めていただけです。革命は失敗に終わったと言えるでしょう。彼らの言う自由は尊王の下の自由、薩長支配下の自由であり、現在私たちが唱えている自由とは大きく異なります。

 

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富国強兵、帝国主義の日本は徐々に韓国に魔の手を伸ばします。既に清の国力は衰えていましたが、朝鮮半島は冊封による清の支配下にありました。経済的に朝鮮半島に乗り込んだ日本と清が戦争になります。1894年の日清戦争です。日本は韓国の独立を勝ち取り、清の一部を植民地のような形で割譲します。賠償金も勝得ています。これがその後の1910年の韓国併合や満州国につながるわけですが、その前にもう一つ重要な戦争があります。1904年の日露戦争です。これは日本とロシアによる中国北部の覇権争いです。

 

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日本は同じく清と冊封関係にあった琉球王国を滅ぼし「沖縄県」として占拠しています。明治政府が行った琉球処分という事実は日本人として、特に沖縄に旅行や移住を考えている人は知っておくべきです。

 

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2015年5月20日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 明治維新の終結

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江戸の幕末、武士が特権を持つ江戸社会はグローバル・スタンダードから外れていました。黒船は起点にしかすぎず、明治維新はグローバルの波と国内の歪を整合化する避けられない革命だったと考えています。戦国時代の下克上の時と同じく、下級の若い武士や商人が中心となり国の形を劇的に変えました。日本が危機の時には若者から英雄が現れるのですね。明治維新では日本という天皇家を中心とした尊王思想社会を確立し、大日本帝国軍という日本国家の統一軍隊ができました。天皇陛下のための軍隊であり、国民皆兵、つまり徴兵制で組織されました。その力は西南の役で世の中に見せつけられました。

 

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この時代の世界標準、グローバル・スタンダードは何でしょうか。民主主義とか資本主義とか東西冷戦後の世界標準で考えてはいけません。世界は植民地全盛時代、奪うか奪われるかという陣取り合戦の最中であり侵略こそがグローバル・スタンダードだったのです。侵略するか侵略されるか、二つに一つの選択でした。海外の武力に対抗できる軍事力が必要と気が付いたのは吉田松陰であり、明治維新の志士です。馬関戦争など攘夷に失敗した事で藩単位では勝てない、統一国家をつくるため「尊王」思想に傾倒しました。天皇主権の四民平等、国民皆兵、明治になり徴兵制が始まり、富国強兵で強くなりすぎた大日本帝国はヨーロッパに倣って植民地侵略という「グローバル・スタンダード」をはじめました。大日本帝国が占領したのは韓国だけではなく、北海道(蝦夷)、沖縄、台湾など広範囲に及びます。

 

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明治維新は既得権益として藩と武士が持つ権利を全て奪い中央に権力を集約する革命でした。統一国家でなければ海外に対抗できない、誰でもわかっていたのですが誰が時代を変えるリーダーになるのか決まっていませんでした。可能性のあるリーダーは幕府か朝廷を味方につけた関ヶ原の敗者かという状況で、幕府がリーダーとなって日本統一を進めるオプションもありました。安政の大獄まで主導権争いは幕府がリードしていましたが、桜田門外の変で状況が一変、その後の徳川幕府はリーダーの資質を持っていませんでした。勝利の女神は朝廷を味方に付けた薩長に微笑みました。

 

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さて明治維新後の支配者は誰だったのでしょう。明治天皇陛下だったのでしょうか。いえ薩長の志士により作られた議会であり、枢密院であり、日本帝国軍が支配する軍事国家だったのでしょう。日清戦争、日露戦争、日韓併合、日本は帝国国家として欧州を中心に発生したグローバル・スタンダードに従い戦争への道を突き進んでいくのです。

 

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2015年5月19日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 西南戦争

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朝鮮派遣を反対された西郷隆盛は下野して鹿児島に私学校を作ります。西洋の兵学を教える学校だったのですが、やがて巨大な軍隊組織となります。廃藩置県、四民平等で不満を持ったのは特権階級であった武士です。追い打ちをかけるように明治9年には廃刀令と武士に給料を払わないという法律が決定し武士の特権がすべて奪われたのですから、当然のように内乱が起きます。明治10年の武士による最大の武力「内乱」が西南の役、西南戦争です。薩摩藩、私学校の志士と大日本帝国軍との戦争、戊辰戦争までとは異なり「内乱」という言葉が使われています。明治維新前の内乱は藩内部でのいざこざですが、明治維新後は日本国内の戦争が内乱と呼ばれます。明治維新の最大の英雄である西郷隆盛は一反乱軍のメンバーになってしまったのです。

 

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反乱軍が目指すは東京であり西郷隆盛の敵は同僚だった大久保利通でしょう。不満を持つ士族は各地にいたため移動につれて賛同した士族が増えていきます。しかし既に政府軍は巨大で、山縣有朋を大将にした数万人の軍隊であり、海軍を持っており一地方の反乱軍に到底勝てるはずのない戦いでした。西南の役で政府には勝ち目がないと国民誰もが理解したはずです。ここで明治維新は完了したと言えるのではないでしょうか。

 

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西郷隆盛は人に好かれるカリスマ性を持っていました。その西郷と戦った大久保利通は嫌われますが、彼は西郷が嫌いだったわけではなく単なる真面目で冷徹な政治家でした。日本の理想を追い続けただけです。しかし「西郷を殺した」という印象は強かったのでしょう、西南の役の翌年に大久保利通は暗殺されてしまいます。つまり西南の役で薩摩の英雄たちは壊滅してしまったのです。最初の総理大臣が選ばれるとき長州閥と公家の争いでした。薩摩閥は大きく力を落としていたのでしょう。

 

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さあ、最後に明治維新に区切りをつけておきましょう。

 

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2015年5月18日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 征韓論

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征韓論には発言を注意しなければいけません。個人的には明治政府の思想や行動は間違えていたと断言しておきます。

 

吉田松陰は明治維新の指導者ですが常に正しい事を言っているわけではありません。尊王思想は疑似的な民主主義とは言え、天皇主権を説きました。現代の民主主義と比較する事が正しい歴史解釈ではありませんが、明治の「自由民権運動」と現在の自由民主主義は違います。松陰が起点となった長州の攘夷論は海外四国との戦争で長州と日本を危機的な状況におとしいれました。また松陰の倒幕論は不穏であり、暗殺を計画していました。「個人的な意見」と強調しておきまして、吉田松陰のもう一つの間違いは古事記と日本書紀から「韓国は古来、日本の領土である」と解釈した事です。だからと言って征韓論を吉田松陰が唱えたわけではありません。吉田松陰に限らず日本国内の世間一般に、韓国は日本の一部との「解釈」が広がっていたようです。古事記も日本書紀も天皇家の教訓を示すものであり、最初から歴史書という要素を持って書かれたわけでもなければ、外交関係を記述した文章でもありません。たとえ古事記や日本書紀にそのような記述があったとしても、理由にはならないのです。しかし尊王論は日本書紀までを神格化してしまっていたのでしょう。

 

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当時の「韓国」は日本が使っていた呼称であり、朝鮮半島の人たちは「朝鮮(李氏朝鮮)」と自称していました。現在の大韓民国は第二次世界大戦以降に大韓帝国を引き継いだと考えられる国の名称です。当時、韓国という呼び名は清や日本などが使っていました。清は李氏朝鮮(朝鮮)を通称とし地域名として韓国と呼んでいたようです。ただ決して蔑称だとは考えていません。

 

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李氏朝鮮も鎖国攘夷を行っていました。明治になり開国を達成した日本は朝鮮との国交を望みます。ただ拒否され、釜山では日本ボイコット運動が起きました。ここで「征韓論」が起こります。戊辰戦争の英雄、板垣退助が「征韓論」を唱え韓国への派兵を主張しますが、西郷隆盛が反対します。ここがややこしいところですが、西南戦争がある関係で西郷隆盛の征韓論と結びついて覚えてしまうのですが、西郷隆盛は征韓論に賛成したものの戦争を望まなかったようなのです。これは長州征伐、大政奉還、江戸城無血開城などと共通する彼の方針です。ただし西郷隆盛も征韓論であることに間違いはなく、戦争はせずに論破しようとしたのです。その為に朝鮮に渡航しようとしたのに「暗殺される」と心配した大久保に反対されます。結局明治天皇の決断で西郷を韓国に行かさない(征韓論反対)という政府判断をしたところ、怒った西郷隆盛や板垣退助が辞職して下野します。「明治六年の政変」です。

 

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板垣退助の辞職は自由民権運動につながりますが、それよりも大変だったのは西郷隆盛でした。西南の役に続きます。

 

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2015年5月17日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 総理大臣

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初代、伊藤博文は5回も総理大臣を務めます。伊藤博文は長州藩、松下村塾生の生き残りです。大久保利通、西郷隆盛、桂小五郎など明治維新の英雄は一度も総理大臣になっていませんが理由は意外と簡単です。内閣総理大臣が制定されたのは明治18年、1885年です。大久保も西郷も桂も既に40代の若さで亡くなっており、生き残っていたのは伊藤博文、山縣有朋位しかいなかったのです。それまで行政は太政大臣が執務していたそうです。伊藤博文が総理大臣となった後、公卿や肥前藩の大隈重信などが挟まりますが、原則長州閥と薩摩閥が交替で務めます。日本を帝国主義にした曲者は伊藤博文です。韓国の人たちが伊藤博文を嫌いな理由にはうなずいてしまいます。

 

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長州と薩摩の交代着任は大正デモクラシー、平民宰相、原敬が現れるまで続きます。原は東京駅で暗殺され、今でも彼が暗殺された場所には印が残されているそうです。東京駅に行ったとき、いつも探したいと思っているのですが、いつの間にかお土産探しに熱中し忘れてしまいます(笑)なぜ伊藤博文が総理大臣になったのか。貴族から選ぶのか長州閥から選ぶのかともめていた時、井上馨の「総理大臣は英語が読めなくては」という一言に山縣有朋が賛同し、イギリス留学経験のある伊藤博文になったというのです。笑い話のようですが、これは逸話で激しい派閥争いがあったのではないかと考えています。伊藤、井上、山縣の3人とも長州派閥です。西南戦争以後という事もあり、薩摩閥は少し力を落としていたのでしょうか。

 

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伊藤博文は44歳で総理大臣となり、5回目の時に韓国で暗殺されます。今でも韓国では悪役筆頭と位置付けられる伊藤博文ですが、その原因となった征韓論や韓国併合についてはまた後日触れる事にします。日本が大政翼賛会のクーデターにより変わる昭和初期までは、少しずつ勉強していきます。第二次世界大戦後の総理大臣については触れません。特に高度成長期以降、私にとっては歴史ではなく過去でしかありません。「伊藤博文は選挙で選ばれていない」と問題したくなりますが、今でも内閣総理大臣は選挙ではなく政党による指名制です。これが民主主義として正しい形なのどうか単純には決められません。

 

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ただ一つだけ言えるのは選挙で国民に直接選ばれた方が総理大臣の支持率自体は高くなるはずです。政治が良くなるかどうかわかりませんが、日本の現在と未来を決める内閣総理大臣は国民の選挙で選びたいですね。さて明治維新後の話に戻ります。

 

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2015年5月16日 (土)

最近の写真

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検索エンジンに引っかからないよう、掲載したタイミングからずらして写真を紹介します。

 

半月ほど前に紹介が終わったのは「日本橋ストリートフェスタ2015」の写真です。娘がどうしても観に行きたいというので連れて行ったのですが、お父さんもかなり楽しんでしまいました(笑)コスプレのみなさんカメラに向かってポーズをとってくれるのでありがたいですね。顔のアップが多かったのは観客の方々の顔が映らないようにするためです。全身写真も撮影したかったのですが、思い切りローアングルで狙っている人もいましたので、表情が映るとまずいと考え背景がぼける写真にしました。

 

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現在紹介しているのは「大阪府立 花の文化園」に咲く花々です。大阪には植物園が多くて回り切れていない場所の中で、大阪南部奈良寄りの府立植物園に来てみました。家からの直線距離は近いのですが下道なので車で1時間程かかりました。時期は桜が終わってツツジが満開の頃、ゴールデンウィークの最初の頃です。天気が良くて春の花が満開、敷地が広くて5時間位歩き回りよい運動にもなりました。ただ見つけるのが難しい場所にあり、カーナビがなければ到着できなかったかもしれません。

 

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利晶の里は先日概要を紹介しましたので割愛します。最後に「Worldあぽろん」大阪のソーラン踊りイベントです。出演チーム数が多く4会場に分かれておりましたので全チームの演舞を見ることは物理的にできませんでしたが、メイン会場に居座り写真は1000枚程にもなりました。連写が多く、激しい踊りのためピンボケが多く、使えるのは半分程度です。

 

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それでも今年中は写真が持ちそうです。

 

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2015年5月15日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 千利休

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子供の頃の馬鹿げた夢を思い出しました。「夏に暖房をつけて生活したい」母親に鼻で笑われたことを懐かしく思い出します。

 

SF全盛、オイルショック後とはいえ高度成長期の名残がありアポロが月に到達してかなりの月日がたっていました。エアコンが家庭に普及し始めた頃です。夏に暖房と聞いて「冷房では?」と思われたかもしれません。シンガポールに行くと外は暑いのに極端な冷房で建物内では上着が欲しくなります。つまり町全体を冷房して部屋は暖房、そんな「エネルギー浪費社会」が夢でした。省エネルギー全盛の今では非国民的な夢ですが、シンガポールはほぼ実現しています。

 

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堺に茶道が育ったのは似通った理由のようなのです。千利休の時代の堺は金にあふれた国際貿易都市でした。平野部が広く山が遠い、車で1時間くらい走ってやっと奈良との境界となる山地にぶつかります。堺の人は山が恋しかった、そこで金持ちたちは金に物を言わせて庭に山を再現しようとした、そこから堺特有の小さな庭園が育ったようなのです。禅とのつながりもあって、金をつぎ込むのに質素を大切にして無の境地を目指す空間を庭園に造った、それが茶室であり「わび茶」のスタートポイントのようなのです。茶碗が極端に高価な事からわかるとおり、茶道は金持ちの道楽でした。

 

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堺の千利休の生誕地、路面電車の宿院駅の近くに「利晶の里」という資料館ができました。入場料金は安いのですが展示は利休と与謝野晶子の作品のレプリカと映像が中心です。他府県から来られればがっかり施設に堺のイメージが悪くなりそうですが、大阪近辺から千利休の歴史に興味を持って訪れるには悪くない展示内容です。茶道を学んでいる人にとって利休の歴史は欠かせないかもしれません。

 

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与謝野晶子については別の機会に。

 

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2015年5月14日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 廃藩置県

 

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いま日本という中央政権の国に住む私たちが気にもしない都道府県制度、大阪府は強い自治権を求めて闘おうとしていますが府民は乗り気になっていません。日本は今、完全に一つの国になっているので、都道府県独自の自治はほとんど独自色がありません。私たちは簡単に県境を超えて引っ越せますし、ふるさと納税などという仕組みまでできました。明治以前は敵国であり、脱藩は死罪に値し、敵に兵糧を送る行為だけでも処分されていたはずです。

 

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明治維新で最も疑問に感じるのはどのようにして「廃藩置県」を達成したのかという事です。もちろん内戦は多発しますが、それでも府県体制が成立した事は不思議としか言えません。大政奉還や明治維新よりよっぽど不思議なのです。廃藩置県の前の藩籍奉還は明治2年に行われました。尊王論として土地を天皇家に返すという命令ですが、藩主は知事と名前が変わっただけの状態だったようです。

 

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廃藩置県は明治4年に行われたクーデターです。藩主の権限をすべて奪い、徳川家の支配地を政府が管理していた「府県」という考え方を採用したのです。藩主(当時の知事)をすべて東京に呼び出しその場で全員解任、新しい知事は政府が派遣し旧藩主は地元に帰ることなく東京に移住を義務付けたのです。よく戦争にならなかったですね、当時の政府軍が既に強大になっており対抗できないと感じていたのでしょう。しかし政府内部でも反対派が多く、西郷隆盛などは士族による管理(軍事国家)を目指していたようです。

 

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西南戦争は征韓論が起因です。しかし西郷隆盛の不満は廃藩置県後の体制にも不満を感じていたのではないでしょうか。

 

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2015年5月13日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 戊辰戦争

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降参して無力化してしまった徳川藩(江戸幕府)は世間体もあって叩き潰せない存在になってしまいました。しかし幸いにも会津藩と新選組は新政府に抵抗を続けてくれています。長州による狂気の復讐戦が始まります。なぜ狂気かと言えば女子供まで徹底的に壊滅し、新選組に至っては最後の一人を全滅させるまで攻撃を辞めず、北海道の五稜郭にまで軍隊が到達しているのです。勝敗はとっくに決まっていた、普通は終戦条約を結ぶ段階にあったのに敗者を当時の日本の外(北海道)まで出向き「絶滅」させた戦いであり、日本の戦争の中でも大坂の役に並ぶ極悪の部類に入ると考えています。白虎隊の惨劇など、今では会津藩に同情する社会的風潮があります。

 

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戦争は北海道に及ぶのですが、この時点で北海道はアイヌの国であり日本とは言えません。もちろん江戸時代は日本という国自体が無いのですが、蝦夷(という呼び方もひどいような気がします)は幕府の統治下にありませんでした。江戸時代の日本地図に北海道は入っていませんし、日本語さえも使われていなかったのです。今でも北海道には不思議な地名がたくさんありますね。明治時代の北海道開拓使、屯田兵は聞こえが良いものの、実際には侵略戦争の軍隊と言えます。

 

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今は北海道の話ではなくて戊辰戦争の話でしたね。幕府軍の大将、榎本は明治時代にも重職についていますが、新選組の生き残りである土方は函館で命を落とします。ただし北海道に来ると長州や薩摩の名前が目立ちません。会津を倒せば、彼らとしてはどうでもよくて、板垣退助、山縣有朋、大村益次郎など明治維新のヒーローは誰一人参加していません。戊辰戦争の目的が会津討伐であったことは明確です。

 

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戊辰戦争の終結を持って明治維新の完結…とはいえません。ここからのクーデターこそが明治維新と感じています。

 

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2015年5月12日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 江戸城無血開城

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個人的な反省です。明治維新では血が流れず、世界でも珍しい美しい革命だと誤解していました。アフリカのジャスミン革命に似ていると感じていたのです。その実は海外との戦争を含め、安政の大獄、長州征伐、禁門の変、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争と膨大な死者を出した革命でした。西南戦争まで含めれば更に死者数は増えてしまいます。血が流れなかったと誤解してしまった理由は大政奉還と江戸城無血開城にあります。江戸城開城でも城外で戦闘があって死者が多数出ており、「江戸城が燃えずに開城した」というだけなのです。

 

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西郷隆盛は戦争の中心にいますが、一方で戦争を避ける努力をした人だと感じています。江戸城の無血開城は西郷隆盛と勝海舟の会談で決まっています。徳川家はどこに行った?徳川家は最初から戦争に乗り気ではなく新政府での権力獲得を目指していました。戦争の主力は会津藩を中心とする強硬派です。大阪で庄内藩などが暴走し薩摩藩や土佐藩の邸宅を焼打ち、これをきっかけに京都の鳥羽での戦闘、鳥羽伏見の戦いが始まります。徳川家は錦の御旗に攻撃をすれば朝敵になってしまい、今後の政治主導権を失いますから江戸に敗走します。「江戸を焦土にして迎え討つ」というのは勝海舟の方針で、彼は強硬派でした。

 

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西郷隆盛と勝海舟の会談は薩摩藩の官邸で行われます。徳川将軍は水戸藩に隠居し、江戸城を政府に明け渡すという「依頼」でした。一橋家の将軍は水戸出身なので藩主に戻れという条件であり、その代わりに「江戸を戦場にしない」という案でした。戦争を辞めるという休戦条約ではありません。江戸は日本最大の人口を抱える巨大都市であり、ここで戦火を交えれば膨大な死者を出すと同時に国力が低下し、外国勢に対抗できなくなります。

 

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水戸藩主になり下がった徳川家はこの時点で将軍職を失います。平成の現代でも徳川家は続いていますが歴史の舞台からは降ろされる事になります。ここからは薩長土肥と会津藩や庄内藩との戦争になるのです。

 

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2015年5月11日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 大政奉還

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大政奉還は徳川が降伏したように感じてしまいます。しかし徳川家は主権を渡したわけではないのです。そもそも徳川幕府は主権を持っていません。徳川幕府は天皇家の委任を受けてすべての藩のリーダーとなっていますが、親藩大名はともかく、外様大名はもともと本心から徳川幕府に従っていません。長州や薩摩は代表例としても、長州征伐に出向かなかった藩が多かったのは、中四国、九州に置いて幕府の管理が届いていなかった事を意味しています。関ヶ原の戦いの後に軍事的な征伐を行っていないので、冷戦状態が300年も続いていたことになります。

 

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大政奉還は徳川家のリーダーとしての委任を解き、徳川家を含んだ議会政治で国を動かそうというものです。10月の事でした。もちろん徳川家は初代総理大臣になるつもりだったでしょう。それにしても総理大臣には任期があり、世襲ではありません。土佐藩が薩摩藩と共に徳川家に対して大政奉還を持ちかけたとき、当然徳川は拒否するだろうと考えていました。事実、大政奉還の前に朝廷による倒幕の命令をもらっていました。大政奉還を断ってくれば軍事的に江戸に攻め入る予定だったようです。ところがあっさり徳川家は大政奉還をしてしまいます。軍隊は困ったでしょうね、既に臨戦態勢でしたからね。しかも将軍家は征夷大将軍の職を返さないというおまけつき。

 

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大政奉還後の世の中は江戸幕府時代のままでした。表向きは大政奉還しているので幕府を攻める事もできません。そこで薩摩藩が中心となり12月に起こしたクーデターが「王政復古の大号令」です。将軍職の強制解任、幕府の廃止、摂政関白の廃止が中心です。ここで、摂政関白は親幕府派でしたので廃止したのです。クーデターの中心人物は岩倉具視で京都御所を5つの藩、薩摩、土佐などで封鎖します。会津藩からの襲撃を阻止する必要があったためです。

 

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この時点でも徳川将軍は次期政権の中心となるはずでした。江戸城も徳川家が持っています。しかし幕府とは無関係に会津藩と桑名藩が「幕府勢力として」宣戦を布告します。鳥羽伏見の戦いが起こり、徳川幕府は導かれるように滅亡の道を歩むのです。徳川幕府滅亡、江戸城無血開城へとすすみます。

 

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2015年5月10日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 船中八策

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戦中八策は憲法の草案と誤解していましたが、これも坂本龍馬人気の影響です。私はすぐに過大評価してしまいます。坂本龍馬、船中八策の大きな功績は「大政奉還論」です。幕府が天皇家から委任されていた内政に関するリーダー権、征夷大将軍を返却し、天皇家を筆頭に日本国をつくって、外国勢と対等に渡り合おうというアイディアです。この大政奉還論が船中八策に書かれています。坂本龍馬が長崎から土佐に戻る途中の船の中で海援隊の長岡に書かせたと言われます。

 

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一策目は大政奉還、二策目が上下両院による議会政治です。他にも身分にとらわれない人材登用、海外との不平等条約の改定、憲法制定、官軍(大日本帝国軍)の増強、天皇を守る軍隊の制定(徴兵制)、為替レートの変更です。おもしろいのは最後の為替レートですね、具体的には金銀の交換レートで、商社である海援隊が海外との商取引で我慢できないほどに不条理に感じていたのでしょう。坂本龍馬の愚痴とも感じられます。議会政治や憲法の制定は海外の仕組みを見て民主主義を取り入れようとしており、人材登用の件を見ても天皇の下での平等である尊王論をベースにしています。また軍国主義も奨励しています。

 

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船中八策に刺激を受けて大政奉還を幕府に進言したのは土佐藩の後藤象二郎です。船中八策や大政奉還論が坂本龍馬の無謀な空想ではなく、多くの人が納得できる時代背景が整っていたのでしょう。幕藩体制ではだめだ、すべての藩が共同し行動する日本国が必要だ、それが船中八策の主張であり多くの人が望んでいた変化でした。海外と戦うために国内が争っている場合ではなく、団結して各藩の代表が多数決により決定する議会制度が必要だ、そのためには全員が守るルールとして憲法を進言しているのです(憲法記念日に書いているので強調しております)。

 

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船中八策の素晴らしい所は文章が平易なところです。坂本龍馬の才能は端的にまとめるビジネス文章だったのではないでしょうか。日本の法律も彼の文章を見習って誰にでもわかる簡潔な文章にしてほしいですね。そうすれば憲法の解釈論で何十年も議論しなくて済むのに。

 

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2015年5月 9日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 勝てば官軍

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県庁所在地と県の名称が同じであれば明治維新の戦勝国と学びました。しかし廃藩置県の時には現在よりも県の数が多く300近くもありましたし、市町村合併などで埼玉県のように県庁所在地の名前が変わったところもありますから正確な情報とは言えません。福島県は福島市ですが、本来の首都は会津藩の会津若松市でした。敗戦により他の藩に吸収合併されてしまったのです。それならば長州の山口県はどうかと言えば、彼らは首都機能を萩から移すことが明治維新前の念願でした。また江戸は東京になりました。単純ではありません。

 

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長州征伐の時、幕府は御旗を掲げました。その後に幕府は降伏、政権を薩長土肥同盟=明治政府に渡し「大政奉還」してしまいます。王政復古の大号令の後、残存兵力である会津藩と新選組の掃討作戦が始まり、鳥羽伏見の戦いが始まりました。今度は薩長の軍隊や土佐の板垣退助が御旗を掲げ、進軍していきます。幕府軍は新政府軍の3倍もの軍勢を持っていたようですが、朝敵になる事を避けて関西から撤退します。戦場は江戸に移動します。

 

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御旗を持つかどうかで「正義」が決まり、相手は逆賊になります。「善悪」という概念と「正義」は異なるのです。物理的に御旗を持つことで正義になるのです。明治維新の一番の敗戦国は徳川幕府ではなく会津藩です。鳥羽伏見の戦いから続く戊辰戦争で、被害が一番大きかったのは会津戦争ではないでしょうか。会津藩1万に対して板垣退助をリーダーとした政府軍は75千人、会津は3000人近くの被害者を出しており白虎隊の話は有名です。その時、会津は「賊」ですから御旗を持つ新政府軍に進んで協力した会津住民までいたようです。江戸時代末期でも天皇家の神格は日本中に浸透していたのですね。

 

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これからは人数でもない、正義でもない、ただ朝廷を味方に付け御旗を持った軍隊によるクーデターが始まります。

 

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2015年5月 8日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 第二次長州征伐

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18667月に広島まで出陣していた徳川家茂が病死し、その後12月まで将軍職空位となり統制が乱れた事は幕府軍敗戦の一つの理由です。空位となった理由は最前線にいた一橋慶喜が将軍への着任を断ったからです。しかし第二次長州征伐は長州の軍事的勝利であり、徳川家の将軍が誰であっても勝敗には関係が無かったでしょう。

 

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戦闘は18666月から半年ほど続いています。勝敗を決めたのは幕府軍の主力、薩摩軍が出陣しなかった事、また戦前に長州がイギリスから大量の武器購入に成功していた事です。この戦争では高杉晋作、山縣有朋、大村益次郎など西洋軍隊の指導者が陣頭に立っており、戦国時代の武将を率いる幕府軍では勝てません。小倉での敗退が幕府軍をしり込みさせました。薩摩以外にも出兵しなかった幕府側の藩は多く、時代の流れを察していたと考えています。

 

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この時の幕府軍は松山藩や小倉藩が主軸で、会津藩の姿が見えません。幕府は長州をなめていたのかもしれませんが薩摩を頼りにしていたことも間違いないはずです。細川家の肥後藩は幕府側として大活躍するのですが、幕府軍の弱さを感じたのか途中で撤退します。

 

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大政奉還は長州征伐が終わって1年もたたずに行われました。ただし奉還しても徳川家は支配に何も変化なかったようです。変化があったのは大政奉還の2か月後に行われた薩摩藩のクーデター、王政復古の大号令です。このクーデターは別の機会に勉強します。幕府が長州に負けた事で多くの藩が行動を起こし始めます。ちょっと脱線してから、大政奉還に向けた土佐藩の動きを見ていきます。

 

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2015年5月 7日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 薩長同盟

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坂本龍馬が有名になりすぎて、過大解釈されているのが薩長同盟です。薩摩も長州も「一緒に幕府を倒そう」とは言っていないのです。そんな条約を幕府派である薩摩の島津が飲むはずもありません。つまり少なくとも表向きは倒幕同盟、尊王同盟ではないのです。

 

薩長同盟は大胆に解釈をすれば、長州が会津藩に敵対する事に対して薩摩藩は邪魔しないし物資を支援するというものです。これは例え幕府や朝廷が長州藩を処罰すると判断した時でも効力を失わない条約です。薩摩藩が倒幕の先頭に立つような条文ではなかった事で同盟を結んだのです。

 

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冷静に考えれば長州が同盟を結んだことには違和感がありません。沈みかけた船、もうどこの半でもいいという状態だったはずです。長州が禁門の変で「薩賊会奸」と言い始めてからまだ1年ほどしかたっていない、怒りは収まっていないのです。しかし長州から助けてくれと言い出さなければ、長州にとってのみ利益がありそうな条約など成り立つはずがありません。50100歩と言いながら、長州の恨みは薩摩より圧倒的に会津藩に集中していました。会津を倒すならば敵の手も借りたい、武器も欲しい、会津藩を敵国に想定する事で長州は薩摩と手を結べたのです。たとえ長州藩でも「倒幕」を明文化すれば躊躇したでしょう。ここが坂本龍馬や中岡半太郎の作戦の素晴らしさと言えます。「尊王」とか「倒幕」とか、不穏な空気は全く感じさせない会津藩を倒すための条約なのです。

 

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なぜ薩摩藩が条約に同意したのか、こちらは難しいですね。薩摩藩にとっては何のメリットもないように感じます。事実、1度目の会合に薩摩藩は現れず、2回目の会合で条約は結ばれます。薩摩藩も内部構造に大きな変化がありました。禁門の変までは倒幕より公武合体論だったのですが、西郷隆盛と大久保利通が主軸になり改革強硬思想に変わっていたのです。藩主の島津をだましつつ(というのは個人的な見解ですが)長州藩や土佐藩と一緒になれば幕府を倒せるのではないかと感じていたはずです。また幕府は無力化しており実質会津藩が本体とわかっていました。薩摩は幕府の中心で権力はふるえない、あくまで外様大名でした。幕府についても利益はありませんし、会津藩の下請け的な立場になっており苛立ちがあったでしょう。土佐藩所属の海援隊は株式会社に近い形をとっており、薩摩藩に出資を受けていました。坂本龍馬は薩摩藩から強い信頼を得ていたと考えています。

 

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薩長同盟では坂本龍馬の名前が目立ちます。しかしながら先に土佐藩や薩摩藩を訪れて話をしていた人物がいました。高杉晋作です。彼が薩摩とどのような話をしたのか知りませんが、彼がいなければいくら坂本龍馬が説得しても薩長同盟は無かったのでしょう。高杉晋作という人物のカリスマ性は私たちがイメージしているよりはるかに大きいと感じています。彼が長州のイメージを改善し、倒幕は可能であるとの印象を植え付けていたのでしょう。第一次長州征伐で内戦まで起こした高杉が第二次長州征伐では最重要人物に抜擢されている事からも、よっぽど人に好かれる人物だったのでしょう。彼が病死さえしなければと悔やまれます。彼の死因は肺結核です。現代でも発展途上国では何十万人もの人が肺結核で亡くなっていますし、一時は日本が肺結核で滅びるのではないかと言われ「亡国病」と呼ばれたそうです。この時期には海外から持ち込まれたコレラも蔓延し、若年層の病死率は戦争による死者よりはるかに多い時代でした。高杉晋作は第二次長州征伐が終了して半年ほど、わずか27歳にて没。選挙権は18歳になりましたが、被選挙権ももっと若くてもよさそうです。日本を救うのは若者の活力、明治維新が証明しています。

 

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2015年5月 6日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 坂本龍馬

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筆まめ、女好き、巨漢のイケメン、強い近眼、商人の息子、海援隊という商船会社を作った人物。日本最初の西洋的ビジネスマンが坂本龍馬です。私もジャパニーズ・ビジネスマンのバイブルともいえる「竜馬が行く」に感動し、京都、長崎、高知など彼の足跡を追いかけた一人です。鹿児島にも行きましたよ、彼の新婚旅行の場所です。ただ歴史の中で大活躍をした人物ではありません。マイナーな人物を発掘し小説にしていた司馬遼太郎先生が物語として書いた「竜馬が行く」、坂本龍馬をモデルにした小説であり伝記ではないので本名ではなく竜馬となっています。坂本龍馬はこの小説で取り上げるまで忘れられていた人物でした。そのためか最近になっても彼の古い手紙などが出てくるのです。誰もが忘れていたのですから、捨て置かれた古書が坂本龍馬の物と気が付いて驚くのです。龍馬は筆まめなのでたくさんの文書が残っています。

 

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坂本龍馬について語るほど怖い事はありません。最もファンの数が多い歴史上の人物、巨人ファンの中で巨人の説明を始める阪神ファンが袋叩きに合うのと同じで、歴史を知らないエンジニアが坂本龍馬の足跡を説明すると事故になります。「竜馬が行く」は私が読んだ小説の中で最も面白く、司馬遼太郎先生の小説の中でも最も面白いと感じています。武田鉄也さんが龍馬を演じたときには「許せない」という気分になりましたが(笑)福山さんが演じたときには「本当にこんな感じの人だったのではないか」と感涙しそうでした。福山さんのちょっと作りすぎの笑顔が私の印象とは少し違いましたけどね。歴史が苦手な私でさえもこれほどに明確なイメージが出てきている人物ですから、坂本龍馬の人物像を下手に語ると非難の嵐でしょう。

 

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坂本龍馬という土佐の一藩士がどうやって西郷隆盛と長州を引き合わせる事が出来たのでしょうか。一つには長州藩が馬関戦争で攘夷を辞め、西洋の装備を手に入れるため長崎で武器を買う必要があった、それには長崎の商社である海援隊の協力が必要でした。また長州は第一次長州征伐が和議で終わったため軍隊は保持できたものの、多くの処分者が出ており政治力が大きく低下していました。「藁をもつかむ」SOSが必要だったのです。一方で薩摩は倒幕に乗り気ではありません。しかし幕府が傾いている事は明確に感じていたはずです。薩長同盟については次回、考えます。

 

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坂本龍馬のもう一つの成果が船中八策とそこに書かれている大政奉還論です。これについてはまた別の機会に。

 

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2015年5月 5日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 西郷隆盛と大久保利通

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明治維新で薩摩の活躍が目覚ましいのは藩主、島津斉彬のおかげです。彼は長州の吉田松陰に匹敵する人物でしょう。下級武士だった西郷隆盛や大久保利通を発見したのが斉彬です。斉彬の養女が篤姫であり、ドラマにもなりましたね。斉彬は日本をコントロールしようとした藩主と考えています。彼が倒幕まで考えていたのかどうかはわからず、幕府をコントロールする事が目標だったようにも見えます。そのリーダーが西郷であり大久保だったのではないでしょうか。

 

斉彬が亡くなると時代は後退します。西郷は島流しとなり大久保の活動は目立たなくなります。西郷隆盛が表舞台に復活したのは禁門の変の頃です。変化の理由は生麦の変と薩英戦争です。薩摩は大きな変化を求められ西郷隆盛が求められたのです。この時点で薩摩は尊王でも攘夷でもなく公武合体論です。復活した時、西郷は歩けなかったという事ですから厳しい幽閉生活を送っていたと想像できますね。

 

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西郷隆盛は写真が残っていない事もあって、人物像の想像が難しいですね。有名な肖像画は弟と大山巌をモデルにしており、画家本人が西郷隆盛を見た事さえないそうです。写真が無い明治時代の英雄は珍しく、彼が写真嫌いだったことは有名です。理由の一つが治療を受けなければいけないほどの肥満でしょうか。カリスマ性の高い人物、また人の好き嫌いが激しい人物という印象があり、坂本龍馬を鹿児島の家に招いた話は有名ですね。西郷は勝海舟も好きだったそうで、江戸城の無血開城では彼との交渉になります。西郷は古風で度量のある英雄という印象ですが意見を曲げない事も多くあり、日本の最後の大規模内戦となった西南戦争につながります。

 

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西郷隆盛が軍隊の大将、武官であるとするならば、大久保利通には文官という印象が強くあります。多くの明治維新小説は戦闘を中心に描かれることが多く、大久保利通はほとんど出てきません。だからと言って穏健派というわけではなく、西郷隆盛と同様の強硬派でした。明治維新の筋書きを描いたブレーン、軍師であるとも言えるかもしれません。優秀な政治家と感じていますが、西郷隆盛同様、日本の総理大臣にはなっていません。理由はもう少し先に考えてみます。

 

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長州征伐を前後して西郷隆盛と大久保利通が薩摩藩を主導するようになります。ただ長州も幕府もこの薩摩の変化には気が付いていませんでした。

 

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2015年5月 4日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 第一次長州征伐

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1864年に禁門の変の制裁として「朝命」の下、徳川軍15万人が長州に向かいました。これが第一次長州征伐です。

 

馬関戦争も禁門の変も1864年なので長州にとって波乱の一年です。いくら長州が強いと言っても15万の軍勢には勝てませんし、馬関戦争で武器が破壊されており戦えません。そこで戦争になる前に降伏の形をとります。幕府側として交渉の窓口に立ったのが薩摩藩の西郷隆盛でした。一方、高杉晋作は降伏に反対し過激行動を辞めず、奇兵隊は奪われたものの伊藤博文や力士隊と共に長州藩内で内戦を起こし敗退。内線終了の時点では1865年になっています。幕府軍に勝利した第二次長州征伐が起こる1866年までに1年しかありません。

 

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時代はまだ江戸幕府、長州は降伏したとはいえ無罪ではなく7名が切腹もしくは斬首されます。高杉晋作は逃亡、九州方面に渡ります。しかしただ逃げたのではなく、高杉晋作の活躍が1年後に長州が幕府に勝利する準備を整える事となります。高杉はまず長崎でグラバーたちと話をします。グラバーは武器商人です。先日まで攘夷を唱え馬関戦争で外国の船舶に大砲を討ちまくった高杉が潔いマインドチェンジです。その後、薩摩と接触し薩長同盟の下地を作ります。この接触が無ければ坂本龍馬がいくら活躍しても薩長同盟は無かったでしょう。長州は禁門の変以来、薩摩を会津同様に敵対視してきました。しかし高杉晋作は薩摩の助けなしに幕府には勝てないとビジネスライクに割り切っていたのです。大河ドラマの「花燃ゆ」でも吉田松陰を軽視していた高杉晋作が心変わりするシーンを描いていました。わだかまりのある心変わりという雰囲気で描かれていましたが、彼の性格からもっと潔い心変わりだったのではないかと感じています。

 

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一方、なぜイギリスは先日まで敵国だった長州に武器を売ったのか。幕府にフランスがついているからでしょう。このままではフランスが日本の利権を独占してしまいます。イギリスは幕府に対抗する勢力を育てる必要がありました。その為、大量の武器を西日本で販売したのです。その一つの窓口が「海援隊」でした。高杉晋作が長崎で武器を調達する時、海援隊との接触があったと想像します。武器を調達するため、商社である海援隊とは良い関係を維持するべきと感じていたでしょう。薩長同盟に強い抵抗感があったのは薩摩ですが長州にもあったはず、ただ高杉晋作は気持ちをきりかえていた、そして長州藩の仲間を説き伏せていくのです。

 

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薩長同盟の大きな効果は薩摩から資金面(もしくは信頼面)での援助が得られるようになり、間に海援隊が入る事で長州の武器購入を助け、第二次長州征伐への備えが加速したことにあります。

 

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2015年5月 3日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 桂小五郎

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名探偵コナンの小五郎おじさんは「眠りの小五郎」と呼ばれており、コナン君によるこん睡人格乗っ取り事件の被害者ですが(笑)桂は「逃げの小五郎」です。桂は吉田松陰に山鹿流兵学を学んでいますが、松下村塾とは関係ありませんが、松下村塾の生徒以上に強い師弟関係、友人関係にありました。吉田松陰が黒船に乗った時、加担しようとしたほどです。桂小五郎は武術にも長けた軍人ですが、京都ではしばしば身を隠していたことで有名です。いつも隠れているので明治維新が好きですと情けない人物の印象が残りますが、明治政府を立ち上げ軌道に乗せた英雄の一人です。どうも日本人は最後まで生き残った人が好きではなく、途中で亡くなった吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬などが大好きです。維新軍の敵である新選組の沖田総司まで人気なのですから驚きです。ただし確かに長生きなので、どのタイミングで桂小五郎を取り上げるのか難しい所でした。禁門の変を乗り切って生きつづけ、京都に残ったところが彼の最大の武勇伝かもしれませんから、ここで取り上げましょう。

 

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桂小五郎は京都近郊にいます。そのおかげで坂本龍馬が薩長同盟を結ばせるための打ち合わせができたわけです。桂小五郎のすごい所は、宿敵であり多くの友人を殺した薩摩藩の実質的なボスである西郷隆盛と手を結んだことです。坂本龍馬は今ではヒーロー像があまりに大きくなっており下手なことを書きにくいのですが、今で言えば口車の上手い商社の社長です(笑)坂本龍馬の根幹にあるのは確かに志ですが、その支えとなるのが商人としての経済勘定です。この経済勘定は数学と同じく明確で利益が見えやすい、過去の禍根を打ち消すほどに利益に飛びつきたくなるようなセールストークで二人の豪傑を説き伏せるのです。薩長同盟と坂本龍馬については後日に触れるとして、ここでは桂小五郎でしたね。

 

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桂小五郎は吉田松陰に強く影響を受けています。他の志士の誰よりも強く影響を受けていたのかもしれません。吉田松陰は自己破壊的な突進タイプでした。吉田松陰が桂小五郎位に慎重で逃げ延びていれば日本の初代総理大臣になっていたかもしれません。つまり桂小五郎は常に行動が慎重で、危機回避能力に優れ、長州が京都から撤退しても関西に残り重要な役割を担った点で、明治維新に最も貢献した一人です。逃げの小五郎と言いますが、常に戦闘からは逃げたものの京都からそして彼の使命からは逃げなかった事で明治維新が成立し、一度は朝敵となった長州藩が明治維新の主要メンバーとなり、初代総理大臣を排出する事になったのです。

 

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西郷隆盛、大久保利通、そして桂小五郎が明治維新の主人公であることは間違いないのです。

 

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2015年5月 2日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 禁門の変

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蛤御門の変と言った方がわかりやすいですね。明治維新の銃弾の跡を見るために京都御所の蛤御門には何度か見学に行きました。触れなければいけないのは会津藩、薩摩藩と長州藩の確執です。特に会津と長州の戦いは明治維新の終焉まで繰り返され、今でも市民に確執が残っているとテレビ番組で取り上げられます。ただテレビのインタビューを見る限り、気にするほどの確執は残っていないようです。長州藩と会津藩が「敵国」となった主因が禁門の変です。個人的な見解ですが、長州藩は尊王攘夷という思想に実直で、吉田松陰の思想を体現する組織です。気持ちが良い組織とも言えます。松平、会津藩の戦略はいかにも戦国期から大坂の役までの徳川の戦いを見るようです。「勝てば官軍」会津藩は明治維新の敗者であり、最終的には朝廷の敵として扱われ、歴史でも悪者の評価となりました。楠正成の評価が時代によって大きく変わる様に、私たちは明治以降の教育の中で会津藩が嫌いになるような印象を植え付けらえている恐れがあります。徳川家を守り公武合体説という志を貫いていた会津藩も明治維新の徒ですし、公武合体論自体も一つの消極的な尊王思想で、時代のゆがみの解決策でした。

 

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禁門の変では会津藩が勝っています。「尊王思想」を元に最初に天皇家に近づいたのは久坂玄瑞率いる長州藩であり、朝廷を支配します。もう少し正確に言えば徳川に権力を奪われている天皇も尊皇派であり長州よりでしたが過激すぎる点に懸念は持っていました。馬関戦争で長州の弱体化を見極めた会津藩が朝廷内でクーデターを起こします。長州は敗退して撤収、七卿落ちとして有名です。ここで会津藩と薩摩藩が朝廷と結びつきます。このクーデターに怒った長州の藩士が集まり襲撃を考えていたところ新選組に攻撃されます。有名な池田屋事件です。新選組は会津藩が作った組織とも言えますが、会津藩は松平、つまりが徳川家なので幕府の組織とも認識されています。ただ長州は幕府にではなく「会津にやられた」と感じたのです。

 

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長州の朝廷奪還戦争が禁門の変です。長州が敗退して撤退する時に火を放ったため3万戸の家屋が焼失し、多くの死者が出ています。禁門の変については記載している小説などが多いため詳細は割愛しますが、長州藩が天皇家を会津藩から取り戻そうとして失敗した戦争です。この時に薩摩藩も会津側として参加しているため長州と薩摩の確執も深まります。薩摩と長州は坂本龍馬の手で同盟を結びますが、会津藩とは鳥羽伏見の戦いまで続きますから明治以降も確執として残る事になります。ちなみに吉田松陰の一番弟子でもある久坂は禁門の変での挙兵に反対したようですが抑えきれず、敗戦後に自害しています。一方で高杉晋作や桂小五郎は隠匿します。

 

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長州はここで敗退、朝廷という後ろ盾を無くし長州征伐へと発展していきます。ご存知の方が多いと思いますが、徳川はこの長州征伐にまけるのです。なぜ負けたのか、重要な薩長同盟、桂小五郎、西郷隆盛、坂本龍馬などの出番です。大村益次郎も出てきます。そう明治維新がいよいよ始まったというか、大詰めに来たというか、時代が変わる節目に来ているのです。禁門の変以降、長州には「薩賊会奸」という言葉が生まれ、薩摩と会津は長州の恨みが向けられることになります。その薩摩と長州が同盟を結ぶのですから驚きですが、薩長同盟の後、恨みはすべて会津に向いてしまうのです。明治維新は戦争が無い革命と誤解されますが、実際には禁門の変、長州征伐、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争などで大量の死者を出します。「江戸城の無血開城」が誤解の原因であると同時に、徳川家にほとんど血が流れなかった事も事実でしょう。長州藩は多くの志士を失い会津藩は壊滅する、その戦いがいよいよ始まろうとしています。

 

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2015年5月 1日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 馬関戦争

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1864年、私が生まれる100年前、長州の「尊王攘夷」は吉田松陰が処刑されてから過激化します。その一つが馬関戦争、もう一つが後日取り上げる蛤御門の変です。馬関戦争は無謀とまでは言いませんが過激です。鎖国が終わり、日本経済は為替レートの不平等で大混乱に陥っていました。庶民は鎖国時代に戻したいと願いました。しかし長州の攘夷は過激で、下関沖を通過する外国船を予告なく砲撃しました。当然外国戦艦からの報復が行われ下関の砲台は壊されますが、すぐに新たな砲台を作り砲撃を再開します。

 

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リーダーは「生麦で薩摩に出遅れた」と叫んだ驚きの高杉晋作と奇兵隊です。奇兵隊には吉田松陰の設計が色濃く残っています。西洋的な軍隊と言える奇兵隊が西洋と戦うのです。奇兵隊の構成員は武士ではなく庶民、志願兵でした。高杉晋作の活躍には長州征伐で触れます。奇兵隊は庶民が駆り立てられてできた徴兵軍隊ではなく、私塾などで学び経済的に苦しむ庶民が志願してできた部隊であり、協力して攘夷を目指したのです。長州は他の藩にも「攘夷」戦争を呼びかけましたが薩摩は既にイギリスと戦争になっており、他の藩は能力不足と予想しますが追随しませんでした。長州は孤立したのです。

 

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最後にはアメリカ、イギリス、フランス、オランダの連合軍17隻に長州の砲台は壊滅させられます。世界の4つの大国を敵に回す一地方国家ってすごい話ですね、連合軍にも多数の死者が出たようです。しかしさすがに長州藩は「海外の大国にはかなわない」と認識し攘夷を辞めるきっかけとなりました。この戦争で長州の一部が植民地化されることになりそうだったのですが、高杉晋作が最後まで断り免れたという逸話があります。日本の植民地化を防いだのは高杉晋作の交渉力だったのかもしれません。長州は大村益次郎、力士隊の伊藤博文、京都御所を取りまとめる久坂玄瑞など多くの軍人を排出するのですが、その中でも高杉晋作は突出していました。結核が原因で若くして亡くなっており残念です。

 

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攘夷をあきらめた長州は尊王思想を強くします。舞台は京都に移ります。

 

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