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2015年4月 6日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 豊臣秀次

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豊臣秀次は豊臣秀吉の妹の息子で、本来は三好氏です。秀吉の下で武将として働き、常勝とは言いませんがある程度の良い戦績を収めています。

 

彼の運命は秀吉の一人息子の鶴丸が病死したため跡継ぎがおらず、急に秀吉の養子となり跡継ぎになった事で転がり始めます。「わが世の春」だったのか、荷が重いと落ち込んだのか20代前半の秀次には判断が難しかったのではないでしょうか。世継ぎとして関白となり聚楽第に入りました。一武将だったのに急に、次期天下人、関白、超出世物語ですが下克上ではありません。単に血のつながりで任命されただけであり、実力で勝ち取った地位ではないのです。「薄氷の地位」であることは本人にも認識があったはずです。それでもやはり、彼にとっては幸運でした、ここまでは。

 

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暗雲が立ち込めたのは秀吉と茶々に二人目(三男)の息子である秀頼が生まれた時です。秀次は秀吉から謀反の罪で出家を指示され、すぐに切腹させられ、その上晒首、それどころか、総勢39名の一族粛清。切腹した後での晒首や一族粛清は例がありません。当時の事情に詳しくない私でも異常性を感じます。そもそも謀反の内容自体が明確になっていませんが、部下は理由がわかっていたはずです。秀吉が生きているうちに関白を渡された事がトラブルの始まりでしたね。家康と利家の話は後日になりますが、本当の息子であってもいざこざはあります。

 

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秀次への処罰は二つの大きな実害を豊臣家にもたらします。一つは粛清で豊臣家の親族が激減した事です。もともと下克上で成り上がった秀吉は親族が多くありません。大名は普通一夫多妻で多くの子供を持ちますから、少なくとも親戚の数には困りません。徳川家が良い例ですね、明治まで続きましたから。しかし秀吉は「ねね」と武家階層ではありえない恋愛結婚をしており、彼女の嫉妬を買って、なかなか一夫多妻にはできませんでした。世継ぎができなかった。「ねね」に子供がいない、結果として秀頼だけが親族であとの親族は自分の手で全滅させたことになります。もう一つは秀次へのあまりにも残虐な処罰で、大名の心が秀吉から離れた事です。秀吉寄りの多くの大名が関ヶ原では家康につきますが、特に秀次側であった大名全員が東軍になったのです。豊臣家が滅びる大きなターニングポイントが秀次の処罰でした。

 

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さて秀吉の晩年の行動を整理してきました。いよいよ朝鮮出兵を見ていきましょう。

 

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