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2015年4月13日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 敗者としての桶狭間

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徳川家康はまだ徳川でも家康でもないのですが、もうすぐ名前を変えるのでそのままで行きます。

 

今川家で元服した家康は織田家を攻めるため桶狭間にいました。松平元康という名前で登場しています。桶狭間は今川家大将が討ち取られるという決定的な敗戦です。日本には数々の戦がありますが、単なる地方戦で総大将が打ち取られるという「事件」はほとんど聞きません。桶狭間の敗戦で徳川家康も自害しようとしますが僧侶に諭されて生き延びます。そして今川家が放棄した故郷、岡崎城に戻り復活を果たします。この時家康18歳、一度目の命拾いをしたのです。

 

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1562年、家康は20歳で今川家を見限り、織田家と同盟を結びます。有名な清州同盟です。岡崎城で独立した時点から家康は今川の敵でしたから、見限るというよりは今川家から庇護してくれる織田家との同盟が処世術だったのでしょう。この同盟は20年も続きます。対等同盟だったのに織田家が巨大になり従属同盟になりましたが、それでも続きました、裏切らなかった。20年後に何が起きたかと言えば「本能寺の変」です。なお清州同盟の頃、家康は武田家とも懇意の仲であり、共に今川を攻めます。背後の織田家は同盟を結んだので安心でき、少しずつ領土を広げていくのです。1566年には一向一揆などを鎮圧し、三河を平定します。ここで徳川家康を名乗ります。

 

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徳川は同盟を結んでいた武田家と折り合いが合わなくなります。武田が徳川を嫌ったのかもしれませんが、敵対状態となりました。徳川家康は浜松城に移ったのですが、ここからの家康の弱さは将来の天下人と思えないほどです。武田に責められ命からがら敗走、もう少し戦争が長引けば首を取られていたでしょう。転機は突然の武田軍後退であり、原因は信玄の死亡でした。この時が人生2度目の命拾いです。なりふりかまわず敗走し、生き延びる事の重要さを思い知らされます。

 

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さて、愛知県岡崎市と静岡県浜松市の地理を見てみましょう。岡崎氏は内陸で山の麓、守りには優れていそうです。浜松は天竜川の下流で開けていますが、甲州とはその天竜川でつながっています。武田家にとってみれば太平洋側の出口を抑えられた事、また天竜川を下って行けば攻めやすい場所に城が移動してきた事で三河攻めを始めたのではないでしょうか。家康が嫌われる一つの理由は「弱いのに…」という印象からかもしれません。英雄列伝には向かない実績です。しかし多くのビジネス書で書かれているように大きな失敗が多い人こそ反作用で大きな成功をするものです。

 

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