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2015年4月17日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 家康と朝鮮出兵

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豊臣秀吉が死亡したのは1598年、その2年後の1600年に関ヶ原の戦いが起こります。

 

徳川家が関ヶ原の戦いに勝てた遠因は徳川家康より前に豊臣秀吉が死亡した事、豊臣秀吉が亡くなった時に秀頼が幼少であった事、また秀吉と同時期に前田利家が亡くなった事、そして朝鮮出兵に徳川家が出向かなかった事です。なぜ徳川家康は朝鮮出兵に出向かなかったのでしょう。秀吉の命令に逆らったわけではなさそうです。

 

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先日、朝鮮出兵のための軍隊移動ストラテジーを考えてみました。朝鮮半島に渡るためだけではなく、日本中から人と物を九州に集めるため大量の船、宿泊場所、兵糧が使われた事でしょう。九州、四国、関西の軍隊が九州に集まり朝鮮半島にわたりましたがこの辺りで飽和し、運送力と兵糧が不足、「人が余る」状況になったはずです。そこに関東からの軍隊までもが九州に来たら破綻します。当時の船は木造船ですから激しい輸送で何艘も壊れ、輸送力が徐々に低下したはずです。関東の徳川家康は名古屋城に留め置かれました。豊臣家に逆らったわけではなく、先に進む事が出来なかったのでしょう。徳川家だけではなく東日本の多くの大名が名古屋あたりで待機したようです。

 

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徳川家にとっては幸運でした。多くの西側大名が朝鮮出兵において兵力も軍資金も失う中で、徳川家、および東側の大名は兵力にも経済力にも大きな変化が無かったのです。江戸という土地を強固な軍事拠点にする時間的、金銭的余裕ができました。徳川家康が江戸城に入った1590年から豊臣秀吉が亡くなるまでの8年間、関東平野という未開拓ながら大きな可能性を含んだ土地を肥やしていったのです。

 

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豊臣秀吉は前田利家と徳川家康の巨大化に気が付いていました。しかし既に病気で体力を失いつつあったと想像します。戦争では勝てない、日本を再び戦国時代に戻す時間が彼にはなかったのです。前田利家を醍醐の花見で接待し、秀頼の後見人を徳川家康に指名します。後見人となったことで、実質No.2が徳川家康になりました。それでも前田がいれば家康はすぐに天下取りができなかったはずですが、前田利家が豊臣秀吉の後を追うように亡くなります。なんという幸運か。家康は本当に何もしていない、待っていたら幸運が転がり込んだだけなのです。ただし幸運を生かす才能と決断力は有りました。さあ、関ヶ原に突入します。

 

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