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2015年4月20日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 大坂の役

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家康が秀忠に将軍職を渡したという事は、豊臣秀頼には渡さなかったという意味があります。将軍家は徳川の家系で繋いでいく職位であり、豊臣家には渡さないと断言したのです。一方で関白職に就かなかったのは豊臣家を刺激しないようにするためだったのかもしれません。関白に比べれば征夷大将軍は格が劣ります。この時点で徳川幕府は成立していますが安定はしていません。最大の懸念は伊達正宗だったのでしょう。彼が再び世の中を戦国時代に戻す可能性が十分にありました。もう一つの懸念は大阪城にいる豊臣家です。秀頼も成長しており、支援者を集めて第二次関ヶ原の戦いを起こしかねません。もし家康が死んだあと秀頼と伊達が同時に発起すれば秀忠はやられてしまうでしょう。なにせ秀忠は驚くほどに戦に弱い。家康が生きている間にどちらかを消滅させなければいけません。徳川家康73歳、すでに健康面で懸念が出ていた頃です。

 

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世の中の宣戦布告には色んなこじつけがあります。豊臣秀吉が千利休に切腹をさせたときの理由が「千利休の像の下を秀吉に歩かせたから」でした。もっとひどいのが「方広寺鐘銘事件」です。豊臣家が方広寺を再建した時、鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書いたことで徳川家康が激昂するのです。最初に言いたいのは「よくぞ見つけた」。当然の事ですが秀頼が寺院の鐘に書く文章をチェックしたとは思えません。家康が憤慨した理由は、家康という文字が分断されている(国家安泰)、そして豊臣家を君として子孫が天下を楽しむ(君臣豊楽)と「解釈」できるからです。誰が聞いても「言いがかり」としか思えませんよね。これが理由で宣戦布告って、理由を探しまくっても見つからず思い切りこじつけたと見えます。この銘文についていろんな解釈がありますが、一般的には家康を祝福していると言われている位です。個人的に豊臣家は徳川家に逆らおうという意志がなかったのではないでしょうか、勝てるわけがないですからね。少なくとも家康の死亡を待っていたはずです。だから豊臣家謀反の理由など見つける事は出来なかったのです。

 

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大坂冬の陣はかわいそうなほどの状況です。徳川軍20万人って大阪城を取り巻くには多すぎるほどです。ここでは和議を結び、大阪城は堀を埋め、二の丸、三の丸を取り壊すなど「小型化」が行われます。半年後には夏の陣が始まります。徳川家は冬の陣の後、京都まで戻って堀の埋め立てを待っていただけであり、決戦は4月から5月なので春とさえ言えます。大阪城には既に籠城能力が無くなっていたので、戦は大阪南部、今で言えば堺、阿倍野区、平野区あたりで繰り広げられます。陣容を見れば関ヶ原以上の大人数で、関ヶ原をしのぐ戦国時代最大級の戦争だったようです。豊臣も頑張ったようで、特に真田幸村の活躍は有名ですね。

 

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これにて大阪城は炎上、豊臣家は滅亡、本当の意味での江戸幕府が始まるとともに夏の陣が終わって一年もたたないうちに家康が息絶えます。てんぷらに当たって死んだ…と考えている人はいないと思います。症状から胃がんの可能性が高いようです。

 

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