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2015年4月10日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 秀吉蟄居

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豊国神社に豊国大明神、豊臣秀吉が天皇家に与えられた神格ですが、彼は「八幡」を希望したそうで、遺言状にも書いてあります。

 

彼が衰弱していたことが天皇家としては幸いしたのでしょう、「八幡」は日本を代表する神であり、既に日本最大級の神社組織になっていました。「宇佐八幡宮」について、ここではり触れませんが、天皇家にとってアマテラスと並び立つほどに重要な先祖です。それを成り上がりの秀吉がとってかわろうとしているのです。天皇家は無視できませんから、新しい大明神を作成し、豊臣秀吉に与えたのです。神になるという願望は織田信長にもあったと考えられていますが文書は残っていません。豊臣秀吉の場合は明確に遺書に書いてありますし、徳川家康も東照宮に祀られています。戦国大名の一つの到達目標は天皇ではなく神になる事だったのですね。

 

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彼が亡くなる前の一大イベントである醍醐の花見、醍醐寺で催された女性だらけの一大イベントです。男性で招かれたのは秀頼と前田利家位だとか。この後に秀吉は急に体調を崩します。ただ秀吉の最後が近い事を感じ取って催された花見とも言われており、秀吉の病状がかなり前から悪化していたことがわかります。彼は62歳で死亡したと言われており、50台の後半には体調を崩し始めていたようです。朝鮮出兵は秀吉の正常な判断と感じており、55歳時点ではひどくなかったようです。56歳の時に秀頼が生まれているからこの時もまだ元気だったのでしょうか。しかし57歳ころから極端な残虐性が出てきており、この頃から徐々に弱っていったのではないかと感じています。異常な残虐性は痛みによる癇癪か、何らかの脳障害があったと信じたいのです。既に人間のなせる悪行ではなくなっています。私見ですが豊臣秀吉は50代後半で老衰の症状が出たと記録があります。しかし若年性アルツハイマーでなければそのような症状は出ません。そこで気になったのが豊臣秀吉の年齢です。農家の出でいつ生まれたのか本当にわかっていたでしょうか。北条早雲の例でみるように1020歳くらいサバを読んでいたのではないでしょうか。個人的な感想ですが本当は80歳くらいだったりして。それなら老衰もあるでしょう。

 

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彼の不幸はやはり子孫が少なく、早死にだったことでしょう。側室は16人という説もあれば300人という説もありますが、男児は3人、その中で育ったのは秀頼だけです。しかも秀吉が晩年の子供で、とても日本を統治する事はできません。関ヶ原の戦いになぜ豊臣家が出てこなかったのか、私は少し疑問に感じていましたが答えは簡単です。当時は7歳、小学校12年生程度だったのです。戦争に出向いても足手まといなだけですね。

 

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さて徳川家はなぜここまで日本人に嫌われるのか、その古狸ぶりを見ていきましょう。

 

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