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2015年4月15日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 徳川家と豊臣家

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織田信長と同盟を結んでいた徳川家康ですが家来ではなかったので、豊臣秀吉との同盟はありません。本能寺の変の後、両者は敵対関係です。柴田勝家を倒した秀吉にとって次の敵は織田信雄であり、その後ろにいる徳川家康です。「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。この戦いは一進一退で、徳川と豊臣が直接対決することなく、和睦を迎えます。その後、豊臣家が巨大化していき、徳川は対立することなく従臣という立場を選びます。この前後で人質合戦があったことは大河ドラマ「江」でも重要なシーンとして演出されていました。

 

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この頃、三河(静岡)を収める徳川と関東を収める北条はよい関係ありました。しかし北条を秀吉が攻め、徳川もしぶしぶ従います。戦後、徳川は秀吉によって三河から関八州に移動させられます。禄高は大幅に増えるのですが、北条を裏切った家康が関東を従えることは困難であり、徳川家は弱体化すると考えた事でしょう。つまり秀吉の作戦だったのです。戦争に弱い家康ですが江戸時代を含め、徳川の治世、政治力は特筆すべきです。徳川家康の力だけではなく、彼の家臣が政治力に長けていたのでしょう。家康は関東を掌握します。

 

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家康が弱かった事が遠因となり、無理な人民掌握はしなかったと考えています。「力で抑える」なんてことをすれば一揆がおきただけで負けてしまう。どんなビジネスでも「地域への貢献」が重視され、地元を軽視する企業はどんなに営業利益があっても弱体化します。江戸時代の封建主義であっても地域の支えは大きな力となります。街道整備による物流の改善、税金比率を低く抑え農業生産力向上への個人投資を促進する、戦の時でも円滑な兵糧供給ルートを整備する、また市民による兵糧協力の関係を健全に保つ。

 

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徳川家は江戸城に移ります。江戸時代に入ってもわかるように、徳川家は土木工事に力を入れています。治水工事、都市計画、その一方で関西からの距離を生かし、防衛のための投資は控える、江戸、つまり今の東京がインフラの面で優れた都市になっているのは江戸時代からの都市計画にあります。徳川家康は政治家として一流であり、その才能が開花したのは関八州に移動し、小田原城ではなく江戸城に収まったことにあるのではないでしょう。江戸は広い平野を持ち気候が穏やかなので無限の可能性を持った土地でした。家康が力をつけるには最適な場所だったと言えます。

 

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