« 日本の歴史を少し正しく理解する 聚楽第 | トップページ | 日本の歴史を少し正しく理解する キリスト教の植民地政策 »

2015年4月 4日 (土)

日本の歴史を少し正しく理解する 豊臣秀吉は天下統一できたのか

Osk0067

豊臣秀吉の天下のピークは1590年頃です。金銭面では勝る秀吉ですが、徳川家康は250万石で秀吉の領地より巨大、同盟を結んだ多くの戦国大名も生き残ったまま。天下統一ではなく単なる敵対する大名が薄っぺらの同盟を結んだ国家にすぎず、この状況は江戸時代にも続きます。日本という一つの国家ではなく、現在のヨーロッパに近いと言えるでしょう。少し年表を見てみれば豊臣秀吉は1585年に関白、1586年に豊臣姓となり、1587年に足利将軍家が出家し豊臣家が西日本の支配者となります。秀吉が征夷大将軍にならなかった一つの理由は少し見えるような気がしませんか?足利将軍は彼が関白になった時でも広島県で健在である事と「征夷」という言葉には東日本の印象が強く、東には徳川も北条もいるので、征夷大将軍は同盟国に対して印象が悪いですね。その北条も1589年には豊臣に征伐されています。

 

Osk0070

子供の無かった秀吉は晩年に二人の息子をもうけます。一人目は鶴丸で1589年に生まれ1591年に死亡しています。秀吉の悲しみは親として当然ですが、天下人だけに周りは大迷惑です。まず関白職を甥に譲り、自分は太閤になります。千利休の切腹もこの時期で、子供が死亡した事による狂気じみた行為が見られます。ただし繰り返しますが親としての取り乱し方としておかしくはないと感じています。つまりこの時点で秀吉が脳障害や精神疾患に陥っていた可能性は低いと感じるのです。しかし息子が亡くなったことが一つの原因で、正常な判断力を失いつつあるかもしれません。一方で1592年に織田家を再興しており、明治維新まで続くのです。子供を思う気持ちとして織田信長の気持ちを慮り再興したのか、それとも自分の子供の死が織田家の呪いとでも感じたのか。

 

Osk0071

なぜここまで、豊臣秀吉の精神状態を気にするかと言えば1592年に「文禄の役」が起こるからです。朝鮮半島はあくまでも経路であり、彼が中国、つまり「明」を制圧しようとしたことは明確です。朝鮮出兵については豊臣秀吉の人生の最後で考えたいのでここでは深入りしません。もう一つの問題は1593年に秀頼が生まれた事です。まさかもう子供は生まれる事が無いだろうと秀次に関白を譲ったのですが、自分の失敗に気が付きます。1595年に秀次は謀反の罪で出家し、すぐに切腹となり、晒首です。彼は秀吉の養子であり、実の姉の息子であり、家督まで譲ろうとしていたのです。秀頼が鶴丸より長く生きた瞬間の事件だったとも言えます。秀吉が55歳から58歳ころの事です。

 

Osk0076

1596年、秀吉はキリスト教を厳しく禁じ26人のキリスト教関係者を死刑にします。これは黒船と同じような反応であり、朝鮮出兵も一連の流れと考えています。もちろん多くの歴史学者も似たような意見を持っているのですが、次回はまずその歴史を見てみましょう。

 

Osk0075

« 日本の歴史を少し正しく理解する 聚楽第 | トップページ | 日本の歴史を少し正しく理解する キリスト教の植民地政策 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 日本の歴史を少し正しく理解する 聚楽第 | トップページ | 日本の歴史を少し正しく理解する キリスト教の植民地政策 »

フォト
無料ブログはココログ