« 日本の歴史を少し正確に理解する 吉田松陰の松下村塾 | トップページ | 日本の歴史を少し正確に理解する 生麦事件と薩英戦争 »

2015年4月29日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 安政の大獄と桜田門外の変

Osk0272

原因の全ては徳川幕府大老、井伊直弼の行動にあります。尊皇派の反感を買ったのは「天皇家の許可を得ないまま」日米修好通商条約を結んだことがきっかけです。この条約は今見ればひどくおかしくはありません。阿片の貿易は禁止、踏絵は禁止など現代の常識にあった部分もありますし、阿片戦争を恐れる日本に配慮しています。しかし今の沖縄でも問題となっている不平等な条約でした。この不平等な条約による貿易で日本の物価は高騰し、経済はすぐに危機的な状況となります。しかし吉田松陰たちが反発したのは不平等である事よりも「天皇家の許可を受けていない」ところです。

 

Osk0270

しかしながら安政の大獄と桜田門外の変のきっかけは尊王論ではなく徳川家内紛と言えます。大老井伊直弼を主軸にした派閥と一橋家を中心とした水戸藩の天皇家後継者争いでした。井伊直弼は家定を天皇に決めたと同時に修好通商条約を結びました。反発した一橋家の処分が安政の大獄の始まりでした。この時、一橋家である水戸藩は一種の「マニフェスト」として攘夷を掲げます。その為、安政の大獄や桜田門外の変が尊王攘夷の戦いと勘違いされがちです。安政の大獄、井伊直弼による処分は朝廷から市民にも広がり、倒幕を明言していた吉田松陰も処刑されました。安政の大獄の非道さに対して一橋派の薩摩家は挙兵しようとさえしています。井伊直弼は一般的に見ても暴挙だったのでしょうし、徳川幕府の暴挙に見えた事でしょう。ただ冷静に見れば井伊直弼は徳川家の失われていた支配力、および天皇家の台頭を将軍に変わって力ずくで懐古しようとした「行動力のある部下」だったのかもしれません。

 

Osk0271

桜田門外の変は脱藩の形をとっていたとはいえ一橋派閥の水戸藩士が中心でした。つまり尊王でもなく攘夷でもなく単に政権争いで井伊直弼を倒しただけだったのです。井伊直弼は大老という役職で騙されますが、まだ45歳であり現役バリバリのやり手政治家であり、彦根藩主でもありました。個人的な意見ですが、この事件をきっかけに徳川幕府は変質したと感じています。天皇家に逆らって修好通商条約を結んだ井伊家を倒し一橋家が戻ってきた事で、徳川家も攘夷派に変わったと勘違いされたような気がしています。なにせマニフェストが攘夷でしたからね。しかし政権を取ってしまうと新撰組を組み、尊王攘夷の駆逐を始めます。水戸藩が尊王攘夷と勘違いされていますが、それは政権奪取のためのマニフェストでした。ここから「志」を持った志士による、本当の尊王攘夷と明治維新が始まります。

 

Osk0275

幕府が派閥争いをしている間に、海外の国々は日本侵略/植民地化の準備を始め、反作用として攘夷派の反発は強まりつつありました。しかしなぜ、日本は植民地化を免れたのでしょうか。ここから第二次世界大戦までの道筋が、戦勝国アメリカによりゆがめられており私たちは日本の歴史教育で洗脳されています。私は過激なことを議論するつもりはなく、単に真実を少しでも知りたい、私たちの先祖が本当に感じていた日本の国の在り方を賛成反対含めて見て行きたいのです。それには私が持つ当時のアメリカやイギリスに対する「嫌悪感」を排除しなければ真実が曲がってしまうと感じています。ここから欧米勢との戦争が始まるので最初に明言しておきました。

 

Osk0268

« 日本の歴史を少し正確に理解する 吉田松陰の松下村塾 | トップページ | 日本の歴史を少し正確に理解する 生麦事件と薩英戦争 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 日本の歴史を少し正確に理解する 吉田松陰の松下村塾 | トップページ | 日本の歴史を少し正確に理解する 生麦事件と薩英戦争 »

フォト
無料ブログはココログ