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2015年4月 3日 (金)

日本の歴史を少し正しく理解する 聚楽第

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安土城と同じく全容がわからない聚楽第。京都の上京区あたりにあったのですが、邸宅というより城に近い存在だったようです。

 

1587年に秀吉が関白を執務するための事務所として完成、1591年に豊臣秀吉が関白を退き聚楽第と関白を豊臣秀次に譲ります。しかし1595年に秀次を追放して切腹させ秀吉は聚楽第を1596年に徹底的に破壊するのです。この破壊の仕方に異常性を感じますが「秀吉が異常」と決めつけると全ての原因が分からなくなりますので、秀吉は正常であり政治的な判断をしていたと推定して話を進めます。茶々に自分の子供が生まれたこと(秀頼)が原因で秀次を切腹させたことには親の立場として納得がいきます。しかし既に秀次のいなくなった聚楽第を跡形もなくなるほど叩き壊す理由は何でしょうか。

 

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秀吉の病状について、50代後半から老衰の症状が見られたという表現を見つける事ができます。しかしいくら寿命が短い戦国時代でも50代の老衰はあり得ないので衰弱に似た疾病と考えたほうがよさそうです。具体的な推定病状として脳障害を含む疾病があったことが考えられますが、とにかく千利休に切腹を命じた頃、もしくは豊臣秀次に関白職を譲った頃から、まるで織田信長が乗り移ったような残虐性を感じられます。境目は1590年後半から1591年にかけて、彼が53歳から54歳の頃です。聚楽第の破壊は4年ほど後のことになりますから、91年から94年までの行動は並べてみる必要がありそうです。

 

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豊臣秀吉の行動を並べ立てる前に、まずは聚楽第です。二条城も京都の北にある城ですが、江戸時代に建設されました。聚楽第は大徳寺や北野天満宮などがある京都の北に近く、応仁の乱以前は平安京の内裏があった場所あたりのようです。大徳寺に残る唐門は聚楽第の一部であったと考えられています。大阪城もそうですが、秀吉は大建造物の跡地に城を建てるのが好きですね。天皇家の内裏の上に城を作ったのですから当時の貴族はどのように感じたのでしょうか。

 

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なぜ聚楽第を壊したか、まだ理解できませんね。彼の行動をもう少し探ってみる必要がありそうです。

 

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