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2015年4月26日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 幕末の江戸幕府

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本質的に徳川幕府は日本国全体を支配できる組織ではなく、乱立する藩の軍事均衡冷戦状態における幹事長的な存在でしかありません。幕末の徳川幕府は弱体化し、薩摩長州連合軍の相手は幕府ではなく松平家の会津藩や庄内藩と会津藩が組織した新選組です。姿さえ見えなくなった幕末の徳川幕府に何が起きていたのでしょうか。

 

黒船来航の年、1853年に徳川12代将軍家慶が死去します。61歳でした。彼の時代に起きた「蛮社の獄」は明治維新の序章であり、ざっくり言えば1839年に行われた開国論者や蘭学者に対する言論弾圧です。つまり1830年代には既にヨーロッパやアメリカの船が日本近海に来て開港を迫っていたのですが、幕府は寄港さえ許しませんでした。漂流していた日本人を助けたアメリカのモリソン号を幕府は砲撃して追い返してしまい、この非人道から幕府に反発人たちに対して蛮社の獄が始まったのです。徹底的な鎖国状態でした。市民と幕府の非人道的行動に乖離があり信頼を失うきっかけとなります。

 

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家慶には25人近くの子供がいたのですが早死で15代将軍家定だけが生き残り将軍を引き継ぎます。ただし彼も病弱で精神的疾患の懸念もあるようで、とても将軍の業務はできませんでした。周りの官僚が切り盛りしていましたが派閥争いが起こり外敵の事など対応できません。家定は1858年に死去しますがこの1858年は派閥争いが激しくなりすぎて発生してしまった安政の大獄の年です。家定には跡継ぎがいなかったので「井伊直弼が主導して」紀州藩から養子に入った徳川家茂が将軍になります。安政の大獄と家茂の将軍職には強い関係がありますので後日まとめます。この時家茂は13歳。その2年後に桜田門外の変が起き井伊直弼から一橋に側近が変わりました。その後、家定は長州征伐で大坂城に来ていた時に病死、20歳でした。

 

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そして有名な15代将軍徳川慶喜、既に徳川家の家系とは言いづらく、徳川家康まで300年もさかのぼらなければ血筋としては関係がありません。信頼も薄い。水戸藩であり一橋の名前で呼ばれることも多いですね。彼の在位1年後には大政奉還となります。ここまでを見ればわかるように徳川家は家系が崩壊し、側近の派閥闘争で政治、外交どころではありませんでした。黒船来航以降の将軍は病気や若さゆえ十分な政治ができませんでした。徳川家は黒船や明治維新とは無関係に自己崩壊していたわけです。まともな政治判断ができる徳川慶喜が着任した時、既に徳川は長州に戦争で負け、時流は変わり、御旗は官軍と呼ばれた薩長同盟に奪われていました。江戸城の無血開城、大政奉還は将軍家最後の立派な政治判断です。

 

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明治維新で徳川の名前を聞くことがほとんどなかった理由がなんとなくわかってきましたね。

 

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