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2015年4月25日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 黒船来航

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そもそも明治維新はほとんどが江戸時代中の革命ですが、政権交代が明治天皇の時代なので明治維新と呼ばれています。維新のスタートはいつなのか、比較的明確で嘉永6年(1853年)の黒船来航でしょう。その後20年近くも続いた革命という事になります。アメリカの戦艦が日本に来たのは「捕鯨船の燃料給油地」がほしかったからです。しかしヨーロッパのアジア占領ニュースが幕府にも庶民にも届いています。幕府の関心は南アジアにありました。アメリカが来たのはこの時期だけです。その後、アメリカは南北戦争で日本に来る余裕など無くなります。明治維新の間に聞く国の名前はイギリスとフランスが中心です。

 

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日本の最大の懸念は1840年、香港で起こった阿片戦争です。ポルトガルやオランダの時代は終わり、イギリスとフランスの時代が来ていたのですがイギリスによる阿片戦争の非人道的なやり口は江戸を震え上がらせるのに十分でした。そんな時、海を渡って東からアメリカから使者が来るのです。幕府は驚いたでしょうね。イギリスが大国「清」に圧勝した、差別的な条約が結ばれた、中国に阿片が蔓延した、そしてイギリスの拠点が日本に近づいたのです。そんな時、アメリカから黒船が来ました。貿易船でも捕鯨船でもなく軍艦4隻です。2度目は9隻に増えている上、脅しと取れる空砲を発射しまくっています。なおペリーは琉球王国にも行っており、こちらにはより差別的で攻撃的だったようです。アメリカは決して友好的ではなく威圧的でした。江戸幕府は「日米和親条約」を結びます。内容は戦争をしない事、下田と函館を開港しアメリカの船に物資を供給する事(金貨や銀貨で支払う)、難破した場合はアメリカに引き渡すこと(以前はオランダに引き渡していた)、出島のような居留地の制約を受けない事(下田から7里以内で移動できること)などです。ひどい条約とは言えませんね。

 

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さて私の勘違いを修正しなくては。吉田松陰が最初に乗り込もうとしたのはペリーの船ではなく長崎に来ていたロシア船だそうです。ペリーが二回目に来航した時に再チャレンジ、今度は乗る事が出来たようですが追い出されました。吉田松陰についてはNHKドラマで詳しく語られていますし、別の項でまとめたいのでこの程度にしておきます。二つの議論が起こります。幕府が情けないと感じる人たちで、日米和親条約に反対した天皇家に帰依しようという「尊王」派、アメリカを含む西洋人を追い出せという「攘夷」派。これらはまとまって「尊王攘夷」となるのですが、黒船来航の時にはまだくすぶっている程度です。

 

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これから先、幕末初期の年代を追っておきましょう。黒船来航が1853年、日米和親条約が1854年、安政の大獄が1858年、桜田門外の変が1860年、1861年にアメリカで南北戦争がはじまり、変わって日本にはロシアの船が来るようになって対馬がロシアに占領されます。対馬は山口県、つまり長州の沖合といえますので外国勢は徴収に迫っていました。1863年、馬関戦争と薩英戦争、禁門の変が1864年です。日本の植民地化は寸前にまで迫っているのに弱体化している江戸幕府が対抗できない、最初は攘夷に傾き海外と戦争をしていた長州が尊王に変化していく時代です。まずは江戸幕府の状態と吉田松陰を見ていきます。

 

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