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2015年4月

2015年4月30日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 生麦事件と薩英戦争

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修好通商条約の大失敗は治外法権です。大名行列を横切ったイギリス人を「切り捨て御免」、大名行列を横切るなんて日本人にとって非常識にも程がありますし、切り捨ては合法(御免)でした。これが1862年の生麦事件です。薩摩藩士が切り捨てたのは大名を護衛する武士の条件反射と言え、日本の「当時の」法律から言えば横切ったイギリス人が悪いのです。しかし現代の民主主義に育った治安が良い国に住む日本人が「それは切り捨てた薩摩藩士が悪いだろう」と感じるように、治外法権のためイギリスの法律が優先され、イギリスの法律から判断して「薩摩藩の大罪」となるのです。当然、イギリスとの政治問題になります。

 

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切られたイギリス人は日本の法律を知っていたようです。外国人に大名行列は日本の名物で、見学は珍しくなかったそうです。当然、大名行列に出くわしたときの礼を知っていたし、多くの外国人は大名行例に出くわしたときに切り捨てられることなどありませんでした。しかも切られたイギリス人は事前に大名行列がある事を教えられおり、騎馬から降りる事もなく見学するうえ行列を横切るなど、治外法権を傘にきた挑発的な無礼を意図的に行ったようなのです。しかしさすがに切られるとは思っていなかったでしょうね。日本の常識を説明できるほど英語力を持った通訳が少なかった時代の悲劇かもしれません。イギリスはこの事件で幕府と薩摩藩から莫大な補償金を得ています。つまり事実上、政治問題は金銭解決していたのです。それかかわらずイギリスは薩摩に進撃、戦闘状態になったのです。

 

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切られたイギリス軍に非があったにもかかわらず賠償金をもらったのに軍隊は鹿児島に出向くのです。薩摩の植民地化を考えていたのではないでしょうか。当時最強と言われたイギリスの艦隊が鹿児島藩で大砲を討ちまくり、鹿児島は焦土と化します。しかし日本は完敗したわけではなく、陸からの砲撃によりイギリス艦隊に大きな被害を与え、1隻を撃沈し、イギリス側にも多くの死者が出ました。植民地候補の弱小国であると考えていた日本のたった一つの藩に無敵と言われたイギリス海軍が勝てずに逃げた、世界中の新聞が書き立てるほどに衝撃が走ったようです。その上、日本の法律を無視し、しかも賠償金をもらっていたのに民家に砲撃したイギリスは国際社会から非難を受けたようです。一方で焦土と化した薩摩軍も攘夷は無理だと理解しました。

 

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軍艦が撃沈され軍事支配が難しいと理解したイギリスやフランスは日本を植民地するのではなく商業的なパートナー、同盟の道へと舵を切ります。日本に大量の近代兵器が流れ込み始め、幕府と藩の軍事的均衡が崩れ始めます。明治維新はイギリスとフランスの代理戦争的な要素も含んでいるのです。さて、もう一つ重要な長州と海外勢との戦いを見ておきましょう。馬関戦争が無ければ長州藩の倒幕行動はなかったのですから。

 

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2015年4月29日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 安政の大獄と桜田門外の変

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原因の全ては徳川幕府大老、井伊直弼の行動にあります。尊皇派の反感を買ったのは「天皇家の許可を得ないまま」日米修好通商条約を結んだことがきっかけです。この条約は今見ればひどくおかしくはありません。阿片の貿易は禁止、踏絵は禁止など現代の常識にあった部分もありますし、阿片戦争を恐れる日本に配慮しています。しかし今の沖縄でも問題となっている不平等な条約でした。この不平等な条約による貿易で日本の物価は高騰し、経済はすぐに危機的な状況となります。しかし吉田松陰たちが反発したのは不平等である事よりも「天皇家の許可を受けていない」ところです。

 

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しかしながら安政の大獄と桜田門外の変のきっかけは尊王論ではなく徳川家内紛と言えます。大老井伊直弼を主軸にした派閥と一橋家を中心とした水戸藩の天皇家後継者争いでした。井伊直弼は家定を天皇に決めたと同時に修好通商条約を結びました。反発した一橋家の処分が安政の大獄の始まりでした。この時、一橋家である水戸藩は一種の「マニフェスト」として攘夷を掲げます。その為、安政の大獄や桜田門外の変が尊王攘夷の戦いと勘違いされがちです。安政の大獄、井伊直弼による処分は朝廷から市民にも広がり、倒幕を明言していた吉田松陰も処刑されました。安政の大獄の非道さに対して一橋派の薩摩家は挙兵しようとさえしています。井伊直弼は一般的に見ても暴挙だったのでしょうし、徳川幕府の暴挙に見えた事でしょう。ただ冷静に見れば井伊直弼は徳川家の失われていた支配力、および天皇家の台頭を将軍に変わって力ずくで懐古しようとした「行動力のある部下」だったのかもしれません。

 

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桜田門外の変は脱藩の形をとっていたとはいえ一橋派閥の水戸藩士が中心でした。つまり尊王でもなく攘夷でもなく単に政権争いで井伊直弼を倒しただけだったのです。井伊直弼は大老という役職で騙されますが、まだ45歳であり現役バリバリのやり手政治家であり、彦根藩主でもありました。個人的な意見ですが、この事件をきっかけに徳川幕府は変質したと感じています。天皇家に逆らって修好通商条約を結んだ井伊家を倒し一橋家が戻ってきた事で、徳川家も攘夷派に変わったと勘違いされたような気がしています。なにせマニフェストが攘夷でしたからね。しかし政権を取ってしまうと新撰組を組み、尊王攘夷の駆逐を始めます。水戸藩が尊王攘夷と勘違いされていますが、それは政権奪取のためのマニフェストでした。ここから「志」を持った志士による、本当の尊王攘夷と明治維新が始まります。

 

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幕府が派閥争いをしている間に、海外の国々は日本侵略/植民地化の準備を始め、反作用として攘夷派の反発は強まりつつありました。しかしなぜ、日本は植民地化を免れたのでしょうか。ここから第二次世界大戦までの道筋が、戦勝国アメリカによりゆがめられており私たちは日本の歴史教育で洗脳されています。私は過激なことを議論するつもりはなく、単に真実を少しでも知りたい、私たちの先祖が本当に感じていた日本の国の在り方を賛成反対含めて見て行きたいのです。それには私が持つ当時のアメリカやイギリスに対する「嫌悪感」を排除しなければ真実が曲がってしまうと感じています。ここから欧米勢との戦争が始まるので最初に明言しておきました。

 

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2015年4月28日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 吉田松陰の松下村塾

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吉田松陰が松下村塾で教えたのはわずか1年程度ですが、この1年が倒幕を達成させ、日本を救ったとも言えます。長州の藩校として明倫館がありましたが士族しか入れなかったので、入れない学生は私塾で学んでいました。しかし吉田松陰の私塾である松下村塾は学校とは程遠く、明らかに思想を教える人生設計セミナーでした。塾生は驚くべきメンバーで、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など今後の明治維新、明治時代の主軸です。彼ら生徒がすごかったのか、彼らを行動に導かせた吉田松陰がすごかったのか、それとも両方か。

 

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彼の教えの根幹である尊王論は、「世の中は天皇の物(主権)であり、その他の国民は天皇の下で平等である」という疑似平等論です。幕府による支配は天皇以外の万民が平等であるという思想に反しているという論理です。幕府、特に井伊直弼は天皇家を軽視する政治を行っていました。吉田松陰は幕府が天皇家の代弁者である、天皇家に逆らうのであれば倒すべきと考えていました。彼の教えには志という言葉、そして志士という言葉が何度も出てきます。志を立てろ、強い志を持ち世俗の意見に惑わされるなと教えています。私が好きな彼の言葉は「君子勿素餐」、いたずらに時を過ごすなという意味です。ただ私は落ち着きが無いとと言われることが多く好きな言葉であっても、参考にしてはいけないのかもしれません。この言葉を座右の銘にすればますます落ち着きがなくなりそうです。そして彼こそがこの言葉に従いすぎたのか、生き急ぎすぎました。

 

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松下村塾建屋のレプリカは山口県萩市にあり学生時代に車で見に行きました。萩は今でも利便性の悪い場所にあります。三方を山、もう一方を海に囲まれた小さな平野で、高速道路は通っておらず、細い国道と山陰本線が通っているだけです。長州藩は徳川幕府が利便性の高い瀬戸内海側や下関に藩都を作ることを許されなかったため幽閉されていたとさえいえます。幕府への反感は関ヶ原から冷める事が無く、長州藩住民の共通意識として蓄積していましたが、今にも暴発しそうな危険性を認識していた毛利長州藩は反幕活動に対して神経をとがらせていました。しかし市民の声は抑えきれなかった、松下村塾という小さなセミナーでついに爆発した「尊王」「軍事行動による攘夷」思想は、その後抑える事はできなくなります。

 

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さてわかりにくい二つの事件を自習します。安政の大獄と桜田門外の変です。

 

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2015年4月27日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 吉田松陰

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私が高校生の時の話。吉田松陰は明治維新の「指導者」という印象があるため、高齢だと勘違いしていました。60代位か若くても40代のイメージを持っていたのですが、なんと29歳で死罪となっています。思想家として若すぎるかと言えばそんなことはありません。人間が明確な思想を持つのは15歳位からだそうで、これから10年くらいが人生で一番頭の良い時期と私の中学時代の先生が言っていました(確証無し)。明治維新で活躍した若者は20代が多く、カール・マルクスも20代の中盤で共産主義に目覚めます。20代の天才が提唱する思想は人を動かす力があると感じています。その点で若い人のいない大阪維新はだめです(笑)そして現代の日本の政治家は平均年齢が高すぎます。平均年齢で30歳程度は若返らないと国は変わりません。

 

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松陰が衝撃を受けたのは大国「清」が阿片戦争にあっさり負けたことでした。長州藩で軍隊を指揮していた彼は「日本の武術ではだめだ、西洋兵学を学ばなければいけない」と方針転換、強い気持ちから20歳にして九州に出向き勉強を重ね、更に江戸に行って佐久間象山に教えを乞います。その後松陰は東北旅行に行きたかったのですが手形が得られなかったので脱藩。そしてロシア軍艦に乗り込もうとしたりアメリカの黒船に密航したりします。これらの行動で感じる彼の性格は破天荒で過激な若者ですね。その後自首して逮捕され幽閉、1855年に出獄します。その後に松下村塾で多くの若者を指導するのですがですが、こちらに関しては次回触れます。ただ彼の行動を見ていると最初は国防強化が主目的だったように感じるのですが、どこからか攘夷思想が強くなります。尊王思想は最初からあったと考えますが、攘夷の思想がどこで強くなったのかわかりません。彼の強い攘夷の思想は安政の大獄や馬関戦争につながっていくのです。

 

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1858年に、松下村塾を初めてわずか1年後に幕府が天皇家の反対を退け日米修好通商条約を締結したため強い「尊王思想」から激怒、一人で倒幕を宣言し幕僚の暗殺を計画します。個人で倒幕、暗殺など過激にも程度があり、さすがに塾生に止められてしまいます。その後も討幕を明言し続けたため逮捕され「安政の大獄」で死罪になります。安政の大獄をきっかけに松陰の思想を受け継いだ長州が倒幕の主役に躍り出るのですが、正直なところ吉田松陰の行動は過激すぎて自殺行為とも見えます。主義を重視しすぎて味方を作らず暴走しすぎたような気がします。塾長という役割から落ち着いた人という印象を持っていましたが全く違います。今の大河ドラマで描かれている松陰はやわらかい雰囲気ですが、実際にはもっと過激な思想家だったのでしょう。一方で長州藩主や実力者を味方につけ乗り切る能力が無かったようですね。長州が松陰死亡後、尊王攘夷のため強い行動を起こしていますから彼は生き残り、長州藩を指揮する選択肢を模索すべきだったと考えます。

 

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早すぎた孤高の天才と言えるのかもしれません。

 

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2015年4月26日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 幕末の江戸幕府

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本質的に徳川幕府は日本国全体を支配できる組織ではなく、乱立する藩の軍事均衡冷戦状態における幹事長的な存在でしかありません。幕末の徳川幕府は弱体化し、薩摩長州連合軍の相手は幕府ではなく松平家の会津藩や庄内藩と会津藩が組織した新選組です。姿さえ見えなくなった幕末の徳川幕府に何が起きていたのでしょうか。

 

黒船来航の年、1853年に徳川12代将軍家慶が死去します。61歳でした。彼の時代に起きた「蛮社の獄」は明治維新の序章であり、ざっくり言えば1839年に行われた開国論者や蘭学者に対する言論弾圧です。つまり1830年代には既にヨーロッパやアメリカの船が日本近海に来て開港を迫っていたのですが、幕府は寄港さえ許しませんでした。漂流していた日本人を助けたアメリカのモリソン号を幕府は砲撃して追い返してしまい、この非人道から幕府に反発人たちに対して蛮社の獄が始まったのです。徹底的な鎖国状態でした。市民と幕府の非人道的行動に乖離があり信頼を失うきっかけとなります。

 

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家慶には25人近くの子供がいたのですが早死で15代将軍家定だけが生き残り将軍を引き継ぎます。ただし彼も病弱で精神的疾患の懸念もあるようで、とても将軍の業務はできませんでした。周りの官僚が切り盛りしていましたが派閥争いが起こり外敵の事など対応できません。家定は1858年に死去しますがこの1858年は派閥争いが激しくなりすぎて発生してしまった安政の大獄の年です。家定には跡継ぎがいなかったので「井伊直弼が主導して」紀州藩から養子に入った徳川家茂が将軍になります。安政の大獄と家茂の将軍職には強い関係がありますので後日まとめます。この時家茂は13歳。その2年後に桜田門外の変が起き井伊直弼から一橋に側近が変わりました。その後、家定は長州征伐で大坂城に来ていた時に病死、20歳でした。

 

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そして有名な15代将軍徳川慶喜、既に徳川家の家系とは言いづらく、徳川家康まで300年もさかのぼらなければ血筋としては関係がありません。信頼も薄い。水戸藩であり一橋の名前で呼ばれることも多いですね。彼の在位1年後には大政奉還となります。ここまでを見ればわかるように徳川家は家系が崩壊し、側近の派閥闘争で政治、外交どころではありませんでした。黒船来航以降の将軍は病気や若さゆえ十分な政治ができませんでした。徳川家は黒船や明治維新とは無関係に自己崩壊していたわけです。まともな政治判断ができる徳川慶喜が着任した時、既に徳川は長州に戦争で負け、時流は変わり、御旗は官軍と呼ばれた薩長同盟に奪われていました。江戸城の無血開城、大政奉還は将軍家最後の立派な政治判断です。

 

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明治維新で徳川の名前を聞くことがほとんどなかった理由がなんとなくわかってきましたね。

 

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2015年4月25日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 黒船来航

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そもそも明治維新はほとんどが江戸時代中の革命ですが、政権交代が明治天皇の時代なので明治維新と呼ばれています。維新のスタートはいつなのか、比較的明確で嘉永6年(1853年)の黒船来航でしょう。その後20年近くも続いた革命という事になります。アメリカの戦艦が日本に来たのは「捕鯨船の燃料給油地」がほしかったからです。しかしヨーロッパのアジア占領ニュースが幕府にも庶民にも届いています。幕府の関心は南アジアにありました。アメリカが来たのはこの時期だけです。その後、アメリカは南北戦争で日本に来る余裕など無くなります。明治維新の間に聞く国の名前はイギリスとフランスが中心です。

 

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日本の最大の懸念は1840年、香港で起こった阿片戦争です。ポルトガルやオランダの時代は終わり、イギリスとフランスの時代が来ていたのですがイギリスによる阿片戦争の非人道的なやり口は江戸を震え上がらせるのに十分でした。そんな時、海を渡って東からアメリカから使者が来るのです。幕府は驚いたでしょうね。イギリスが大国「清」に圧勝した、差別的な条約が結ばれた、中国に阿片が蔓延した、そしてイギリスの拠点が日本に近づいたのです。そんな時、アメリカから黒船が来ました。貿易船でも捕鯨船でもなく軍艦4隻です。2度目は9隻に増えている上、脅しと取れる空砲を発射しまくっています。なおペリーは琉球王国にも行っており、こちらにはより差別的で攻撃的だったようです。アメリカは決して友好的ではなく威圧的でした。江戸幕府は「日米和親条約」を結びます。内容は戦争をしない事、下田と函館を開港しアメリカの船に物資を供給する事(金貨や銀貨で支払う)、難破した場合はアメリカに引き渡すこと(以前はオランダに引き渡していた)、出島のような居留地の制約を受けない事(下田から7里以内で移動できること)などです。ひどい条約とは言えませんね。

 

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さて私の勘違いを修正しなくては。吉田松陰が最初に乗り込もうとしたのはペリーの船ではなく長崎に来ていたロシア船だそうです。ペリーが二回目に来航した時に再チャレンジ、今度は乗る事が出来たようですが追い出されました。吉田松陰についてはNHKドラマで詳しく語られていますし、別の項でまとめたいのでこの程度にしておきます。二つの議論が起こります。幕府が情けないと感じる人たちで、日米和親条約に反対した天皇家に帰依しようという「尊王」派、アメリカを含む西洋人を追い出せという「攘夷」派。これらはまとまって「尊王攘夷」となるのですが、黒船来航の時にはまだくすぶっている程度です。

 

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これから先、幕末初期の年代を追っておきましょう。黒船来航が1853年、日米和親条約が1854年、安政の大獄が1858年、桜田門外の変が1860年、1861年にアメリカで南北戦争がはじまり、変わって日本にはロシアの船が来るようになって対馬がロシアに占領されます。対馬は山口県、つまり長州の沖合といえますので外国勢は徴収に迫っていました。1863年、馬関戦争と薩英戦争、禁門の変が1864年です。日本の植民地化は寸前にまで迫っているのに弱体化している江戸幕府が対抗できない、最初は攘夷に傾き海外と戦争をしていた長州が尊王に変化していく時代です。まずは江戸幕府の状態と吉田松陰を見ていきます。

 

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2015年4月24日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 江

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浅井三姉妹の末っ子、江。母親は信長の妹である市です。江は3度の結婚をしていますが、その内の2回は徳川家と関係が無いので三回目の結婚、二代将軍徳川秀忠の妻となってからを見ていきます。

 

江はとにかく子沢山、秀忠との間にも35女を設けています。2代将軍の妻、3代将軍の母、そして天皇の祖母でもあるのですからすごい。娘たちは千姫の豊臣家(秀頼)嫁入りを筆頭に、加賀藩、越前藩、松江藩などに嫁いでおり、日本の母とさえ言えそうです。秀忠は側室を持たなかったのですが、江に子供がたくさん生まれて世継ぎには困りませんでしたね。ちなみに千姫は5歳にして秀頼と結婚しているのですから、まだまだ異常な世の中でした。

 

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NHKドラマで江は美しく描かれていましたが、一般的には悪女、側室がいなかった事から嫉妬深いというイメージが強いようです。これが単なる噂なのか、「火の無いところに煙は立たない」のか。個人的には市にしても江にしても、信長の家系ですから気が強かったのではないかと感じています。江がなぜ家光を嫌ったのか、叔父を殺した明智家である春日局が嫌いだったのか、彼女の周りには殺人事件の香りまでするのです。当時としては珍しい火葬で埋葬されているところも「何か騒動があったのだろう」と興味を持ってしまいます。

 

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江の姉、茶々は豊臣秀吉の側室であり、豊臣秀頼の母親です。茶々と江の父親は叔父である織田信長に殺され、母親は豊臣秀吉に殺されています(正確には両親とも自害です)。そして江の姉とその息子は義理の父親の徳川家康に殺されます。秀忠は活躍していませんが参戦はしています。ちょっと常軌を逸していますね。親族を殺した人たちと家族になる、浅井三姉妹が戦国武将と並びたてられて語られるのは当然ですし、お江が悪女くらいでは驚きません。

 

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徳川幕府はこれから300年も続きまし、徳川家は将軍ではなくなったものの今でも続いています。さて明治維新に進みましょう。

 

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2015年4月23日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 春日局と徳川家光

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徳川家の家系図は歪んでいます。正室の息子が将軍になったのは徳川家光だけです。家光は徳川秀忠とお江の息子です。物語を面白くしようとすれば、「家」光は徳川「家」康と春日局の息子という噂がありますが、その謎は永遠に解明できません。ただ春日局がお江から家光を奪い乳母として育てた事だけは間違いなさそうです。江は悪名高い浅井三姉妹の一人、織田家の家系ですからどんな教育をするかわからない、跡継ぎを江から引き離して明智家系の春日局に渡したのは家康と秀忠の決断かもしれません。その春日局は明智系ですが、家康は明智光秀を恨んでいないどころか感謝しており、神格化さえしていたと考えられています。明智がいなければ徳川幕府はない事を家康が一番実感していたはずです。家光の「光」が明智「光」秀のからとったかどうかまではわかりませんけどね。

 

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家光が有名なのは江戸時代に特徴的な政治を始めたからでしょう。キリシタン弾圧を通して鎖国体制を築き参勤交代を始めます。家光の時代に戦国時代は既に過去になっており戦争を知らない世代です。家光は気が弱く、あまり人を信じなかったような気がしてなりません。参勤交代は一種の人質制度であるだけでなく、大名の経済を圧迫して戦闘力を奪います。一方、海外勢力を恐れて国を閉じてしまうというやり方は秀吉の韓国出兵とは逆向きとさえいえる後ろ向きで弱気な政策です。しかし結果としてはうまくいきましたね。

 

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乳母の春日局は有名ではありますが、たかだか乳母ですから詳細な歴史は残っていないようです。ただ歴史を面白おかしくしようとしてたくさんの逸話があります。逸話には信じてよいものもありますが、多くの逸話には悪意があります。ドラマの「江」でも逸話に従ったドラマが展開されました。ドラマとしてはとても面白かったのですが、あまり正確ではないと感じています。

 

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それでは戦国時代の最後に「江」についてみていきましょう。

 

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2015年4月22日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 徳川秀忠

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なぜ家康は三男の秀忠を将軍にしたのか、「家康の言いなりだったから」というのが個人的な想像です。ドラマの江ではわかりやすく描かれていましたが、秀忠は戦争に弱い、とても武将の素質があるとは思えません。「金持ちのお坊ちゃま」の風格を備えています。秀忠の後は家光ですが、家光の母は春日局、そして父親は徳川家康の可能性があると言われています。この家督争いが「江」というドラマのメインテーマでしたね。まあ正直なところ家光の本当の父親が誰かなんて春日局しかわからないし、秀忠が一応父親になっていた以上、大きな問題ではありません。

 

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軍事の才能はなかった秀忠ですが政治の才能には優れていたようです。家光の政治が目立ちますが、秀忠は戦国時代の熱を冷まし、平安な江戸時代の地盤を築きました。武家諸法度を作ったのが徳川家康だとしても、軍事的均衡を冷戦状態に落ち着かせて武家のルールを定着させたのは秀忠です。関ヶ原の熱も大坂の役の熱も冷めていませんし、北には伊達政宗が残っています。

 

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そうはいっても三男坊、なぜ将軍になれたのでしょう。長男は秀忠が生まれた年に切腹しています。次男は豊臣秀吉の養子です。そういう意味で、三男坊とはいえ順番通りと言えます。戦争が苦手という性格は政治には向いていました。自分が弱い事をしっているので、家康が亡くなった後の「戦争を避ける政治」を常に考えていたのではないでしょうか。外様大名との対話をとても重要視していたようです。

 

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徳川が天下を取ったのは家康の貢献ですが、300年も続く基盤を作った貢献は秀忠にあります。

 

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2015年4月21日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する日光東照宮

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東照大権現、東を照らす最上位の「権現」という意味であり、徳川家康を神格化した神です。権現とは日本の神と仏とのハイブリッドという存在のようです。家康は静岡県で亡くなり、静岡県に九能山東照宮ができました。しかしわずか1年後に日光に東照宮が移ります。当時の埋葬技術から考えて、1年もたった遺体を移したとは思えませんので霊魂だけを移した(分霊した)という事になるでしょうね。日光東照宮が巨大になったのは、家康の死後20年近くがたった後、家光が行っていますので最初は今ほどに大きくありません。

 

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移動させた理由は家康の遺言に従っただけです。「まず久能山」「一周忌が過ぎたら日光山」「日光山で八州の鎮守になる」と言っています。ここで八州は関八州ではなく当時の日本全土を意味し、日光は江戸に対して北極星を強く意識した配置にあります。北極星のように光り輝き江戸を守るなんて、かなりのロマンチストですね。でも本当は「鬼門の封鎖」ではないでしょうか。もちろん神がかり的な理由ではなく、具体的には伊達正宗です。

 

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仙台藩藩主、「独眼竜」伊達政宗、もう少し早く生まれてくれば伊達幕府を作っていたのかもしれません。江戸初期、加賀藩、薩摩藩に並ぶ巨大な仙台藩、大坂の役の活躍を見ても東軍の主力です。しかも若い、戦国時代の武将は徳川家康より先に亡くなり、子孫の世代に移っています。しかし戦国大名の生き残りと言える伊達政宗は若く、家康が亡くなった後の「最強勢力」と言えます。彼が松平姓を賜っている事からも徳川家として格別の配慮があったことに間違いありません。しかし伊達家は意外なほどに徳川家に忠義を示しており、参勤交代も政宗の号令で決まったようなものです。

 

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さて、戦国時代は終わりました。個人的に江戸時代には興味がありません。戦国時代の後始末を見て終わりとし、明治維新に進みます。

 

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2015年4月20日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 大坂の役

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家康が秀忠に将軍職を渡したという事は、豊臣秀頼には渡さなかったという意味があります。将軍家は徳川の家系で繋いでいく職位であり、豊臣家には渡さないと断言したのです。一方で関白職に就かなかったのは豊臣家を刺激しないようにするためだったのかもしれません。関白に比べれば征夷大将軍は格が劣ります。この時点で徳川幕府は成立していますが安定はしていません。最大の懸念は伊達正宗だったのでしょう。彼が再び世の中を戦国時代に戻す可能性が十分にありました。もう一つの懸念は大阪城にいる豊臣家です。秀頼も成長しており、支援者を集めて第二次関ヶ原の戦いを起こしかねません。もし家康が死んだあと秀頼と伊達が同時に発起すれば秀忠はやられてしまうでしょう。なにせ秀忠は驚くほどに戦に弱い。家康が生きている間にどちらかを消滅させなければいけません。徳川家康73歳、すでに健康面で懸念が出ていた頃です。

 

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世の中の宣戦布告には色んなこじつけがあります。豊臣秀吉が千利休に切腹をさせたときの理由が「千利休の像の下を秀吉に歩かせたから」でした。もっとひどいのが「方広寺鐘銘事件」です。豊臣家が方広寺を再建した時、鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書いたことで徳川家康が激昂するのです。最初に言いたいのは「よくぞ見つけた」。当然の事ですが秀頼が寺院の鐘に書く文章をチェックしたとは思えません。家康が憤慨した理由は、家康という文字が分断されている(国家安泰)、そして豊臣家を君として子孫が天下を楽しむ(君臣豊楽)と「解釈」できるからです。誰が聞いても「言いがかり」としか思えませんよね。これが理由で宣戦布告って、理由を探しまくっても見つからず思い切りこじつけたと見えます。この銘文についていろんな解釈がありますが、一般的には家康を祝福していると言われている位です。個人的に豊臣家は徳川家に逆らおうという意志がなかったのではないでしょうか、勝てるわけがないですからね。少なくとも家康の死亡を待っていたはずです。だから豊臣家謀反の理由など見つける事は出来なかったのです。

 

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大坂冬の陣はかわいそうなほどの状況です。徳川軍20万人って大阪城を取り巻くには多すぎるほどです。ここでは和議を結び、大阪城は堀を埋め、二の丸、三の丸を取り壊すなど「小型化」が行われます。半年後には夏の陣が始まります。徳川家は冬の陣の後、京都まで戻って堀の埋め立てを待っていただけであり、決戦は4月から5月なので春とさえ言えます。大阪城には既に籠城能力が無くなっていたので、戦は大阪南部、今で言えば堺、阿倍野区、平野区あたりで繰り広げられます。陣容を見れば関ヶ原以上の大人数で、関ヶ原をしのぐ戦国時代最大級の戦争だったようです。豊臣も頑張ったようで、特に真田幸村の活躍は有名ですね。

 

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これにて大阪城は炎上、豊臣家は滅亡、本当の意味での江戸幕府が始まるとともに夏の陣が終わって一年もたたないうちに家康が息絶えます。てんぷらに当たって死んだ…と考えている人はいないと思います。症状から胃がんの可能性が高いようです。

 

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2015年4月19日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 征夷大将軍

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徳川家康はわずか2年で征夷大将軍を辞めてしまいますが、その後も10年ほど大御所として幕府を支配します。征夷大将軍の職は源氏姓しか就くことができません。藤原姓を名乗っていた徳川家康は自分の家系を捻じ曲げ、無理やり源氏姓になりました。一方で関白職は貴族に返しています。関白になれば京都に住まなければいけませんからね。しかしなぜわずか2年で将軍職を辞め息子の秀忠に渡してしまったのでしょうか。彼が征夷大将軍になったのは62歳、1603年でした。64歳の時には秀忠に将軍職を譲っています。ただし実権はまだ徳川家康にあったと言っていいでしょうし、秀忠が家康に勝る器だったとも思えません。

 

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当時の62歳は高齢です。いつ亡くなるかわからない、そこで生きているうちに後継者を決めて地盤を固める、これは秀吉の死に様を見て家康が考えた事ではないでしょうか。先日某家具メーカーのお家騒動が話題になりました。独裁者が生きているうちに、たとえ自分の子孫と言っても権限を譲るには覚悟が必要です。家康も社長を辞めて会長になったような存在ですが、江戸幕府の「取締役」であり秀忠という社長職に実権を与えていませんので覚悟はしていません。三代将軍の家光を比べたとき、秀忠は「何もしていない」印象があります。そんな人物を2代目将軍に選んだ、最初からお飾りにしてもクーデターを起こさない能力の低い三男坊を選んで将軍にしたのではないでしょうか。

 

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静岡でにらみを利かせる徳川家康にとって、目の上のタンコブが残っているのです。豊臣秀頼です。

 

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2015年4月18日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 関ヶ原へ

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徳川家康と同程度の「嫌われ者」が石田三成ですね。ただし三成は家康と違い本当に嫌われました。

 

彼は文官であり豊臣秀吉の側近でした。秀吉の代行として大名などと接見していたようです。しかし大大名とは言えず、強大な軍隊を持ちません。権力者の席は怖いもので、彼は代行者であるにもかかわらず大大名や武将と対等、もしくは大上段から指示をする、だから嫌われたのです。今の企業でも最前線で戦うエンジニアが文官上がりのマネージメントを嫌う日本文化が残っています。日本はたたき上げ、前線を好む社会であり政治家はあまり好かれません。味方であるはずの加藤清正らに襲撃を受けている事からも石田三成の「嫌われ役」は噂話ではなく事実でしょう。彼に関ヶ原で西軍を担うだけの器はありませんでした。前田利家が生きていれば、もしくは西軍の大将である毛利輝元が三成を戦場から排除できれば関ヶ原の結果は変わっていたかもしれません。

 

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関ヶ原東軍の陣容はものすごい。東軍は徳川家康、前田利長、伊達正宗、加藤清正、福島正典など戦国時代のヒーローをそろえた錚々たるメンバーです。一方で西軍も贅沢で、毛利、上杉、島津、宇喜多、石田三成などで構成されます。毛利と島津の敗戦の怒りは明治維新を引き起こすのですから時代を超えた壮大な物語です。関ヶ原では東軍が勝ち、徳川家康は将軍になります。ただし江戸時代以降も「一番大きな大名」に過ぎず、西軍を含め江戸時代には各大名が独立国家(藩)を作ってしまいます。「関所」は国と国との間に作る関門で、現在の日本やアメリカのように統一国や合衆国で県境や州境に関所はありません。「脱藩」は死刑を含む大罪でしたが、現代に日本からロシアに亡命しても死刑になる事はありません。各藩は完全に冷戦的な敵対国状態で、江戸時代には日本という国の形は崩壊します。もちろん関ヶ原よりも前、応仁の乱の頃から崩壊したのですが、関ヶ原後に「諸国の編成と力関係が確定した」と言ってよいでしょう。大名による藩の支配と鎖国の影響で人々の移動は減り日本の船舶技術は後退し、方言が発達していったと考えています。江戸時代は戦国時代のまま戦争を凍結しただけの国家だったのです。

 

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話を戻して関ヶ原ですが、あまりに有名なので深追いしません。「小早川の裏切り」が有名なイベントです。小早川軍15000人、プラスマイナスで言えば東軍が3万人も有利になったことを意味します。戦前の陣容としては西軍有利だったそうですが、西軍の懐深くにいる小早川が裏切ったことで戦況は東軍の勝利で決定的となります。この後、裏切り者の小早川がどうなったのか、2年後には21歳で亡くなり、徳川家により家をつぶされます。多くの西軍武将に恨まれていたので暗殺説がありますが、死因はわかっていません。「呪い殺された」(もしくはたたりを恐れる事により精神的に病んで自殺)という説まであります。関ヶ原の当時は19歳の若い大将、戦後は本家の毛利より大きな岡山城に入った大大名。徳川家康の甘い言葉に騙されたのでしょうね。もちろん小早川も石田三成が嫌いだったと考えられます。それでもやはり裏切りはよくない、まともな人生は歩めません。

 

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ここまでの話で石田三成が悪者に見えますが、関ヶ原の敗戦、もしくは徳川家の台頭は豊臣秀吉が原因です。子孫が少ないのに秀次の家族を惨殺。単に親族を減らしただけではなく、養子とはいえ家族を大量惨殺という残虐性で家臣の人望を失います。関ヶ原の戦いに豊臣姓の大将は一人もいないのです。石田三成が西軍の人望を支えられるはずもありません。また徳川家康の狡猾なところは関ヶ原を対豊臣家ではなく、対石田三成の図式に作った事でしょう。小早川だけではなく西軍から多くの裏切り者が出ています。石田家が大将ですから裏切りやすい、豊臣家が大将であれば難しかったでしょう。裏切り以前に前田、加藤、福島など豊臣家の側近が東軍にいる事自体、豊臣秀吉が晩年に人臣を失っていた事を如実に表しています。勝手な想像ですが、関ヶ原は徳川家康というマイナス要素と、豊臣秀吉+石田三成というマイナス要素の争いで、徳川家康のマイナス要素の方が小さかったから勝者になったマイナス同士のぶつかり合いです。もし石田三成が勝っていれば、日本の歴史史上最強の「嫌われ者」は石田三成になったかもしれませんし、たとえ西軍が勝っていたとしても豊臣政権や石田政権が江戸時代ほどに続いたとは考えづらいですね。毛利が将軍になり広島が日本の首都(西京都)になっていたかもしれません。

 

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2015年4月17日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 家康と朝鮮出兵

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豊臣秀吉が死亡したのは1598年、その2年後の1600年に関ヶ原の戦いが起こります。

 

徳川家が関ヶ原の戦いに勝てた遠因は徳川家康より前に豊臣秀吉が死亡した事、豊臣秀吉が亡くなった時に秀頼が幼少であった事、また秀吉と同時期に前田利家が亡くなった事、そして朝鮮出兵に徳川家が出向かなかった事です。なぜ徳川家康は朝鮮出兵に出向かなかったのでしょう。秀吉の命令に逆らったわけではなさそうです。

 

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先日、朝鮮出兵のための軍隊移動ストラテジーを考えてみました。朝鮮半島に渡るためだけではなく、日本中から人と物を九州に集めるため大量の船、宿泊場所、兵糧が使われた事でしょう。九州、四国、関西の軍隊が九州に集まり朝鮮半島にわたりましたがこの辺りで飽和し、運送力と兵糧が不足、「人が余る」状況になったはずです。そこに関東からの軍隊までもが九州に来たら破綻します。当時の船は木造船ですから激しい輸送で何艘も壊れ、輸送力が徐々に低下したはずです。関東の徳川家康は名古屋城に留め置かれました。豊臣家に逆らったわけではなく、先に進む事が出来なかったのでしょう。徳川家だけではなく東日本の多くの大名が名古屋あたりで待機したようです。

 

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徳川家にとっては幸運でした。多くの西側大名が朝鮮出兵において兵力も軍資金も失う中で、徳川家、および東側の大名は兵力にも経済力にも大きな変化が無かったのです。江戸という土地を強固な軍事拠点にする時間的、金銭的余裕ができました。徳川家康が江戸城に入った1590年から豊臣秀吉が亡くなるまでの8年間、関東平野という未開拓ながら大きな可能性を含んだ土地を肥やしていったのです。

 

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豊臣秀吉は前田利家と徳川家康の巨大化に気が付いていました。しかし既に病気で体力を失いつつあったと想像します。戦争では勝てない、日本を再び戦国時代に戻す時間が彼にはなかったのです。前田利家を醍醐の花見で接待し、秀頼の後見人を徳川家康に指名します。後見人となったことで、実質No.2が徳川家康になりました。それでも前田がいれば家康はすぐに天下取りができなかったはずですが、前田利家が豊臣秀吉の後を追うように亡くなります。なんという幸運か。家康は本当に何もしていない、待っていたら幸運が転がり込んだだけなのです。ただし幸運を生かす才能と決断力は有りました。さあ、関ヶ原に突入します。

 

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2015年4月16日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 江戸城

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時代を少し巻き戻します。15世紀、江戸氏の支配地域を占拠して城を作ったのは太田道灌です。武将としては有名と言えない太田道灌ですが「江戸城を作った人」として有名です。道灌の城を奪ったのは上杉家で、その後、豊臣家に奪われ、最後に徳川家が「引っ越し」してきます。徳川家康が江戸城に入ったのは159081日でした。江戸時代には81日を正月に次ぐほどの祝日にしていたようです。徳川家康が江戸城に入った時、まだ小さな地方の城でした。太田道灌が巨大建造物を作ったという事ではありません。

 

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江戸はその後、徳川政治の中心となり、明治時代には天皇家までもが移動してきます。ただ天皇家の誇りか、明治元年に江戸を改め「東京」(当時は東京府と東京市)に改称してしまいました。天皇家が住むところは「京」でなければいけないようです。それでも皇居は江戸城内(西の丸)にあり、千代田区には国会議事堂があるのですから、今でも日本政治の中心です。江戸城は徳川家により徐々に拡大していったようです。

 

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日本で現役の城は江戸城位ではないでしょうか。もちろん皇居がかつての天守閣を利用しているわけではなく、単に江戸城の敷地を利用しているだけです。皇居は東京の真ん中にあって巨大、地下鉄も高速道路も迂回しています。天守台、本丸跡は江戸城の北西にあり土台の位置だけが残っています。江戸は平安京のように区画整備されず、江戸城を中心としてパリと同じく「の」の字に拡大しています。徳川家が江戸に入った時、都市計画を改めるような余裕や権力が無かった、町は住民の意志で広がって行ったのでしょう。今でも山手線が東京を一周し、駅ごとに都市が発展しています。

 

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時代は江戸時代に近づいてきました。

 

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2015年4月15日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 徳川家と豊臣家

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織田信長と同盟を結んでいた徳川家康ですが家来ではなかったので、豊臣秀吉との同盟はありません。本能寺の変の後、両者は敵対関係です。柴田勝家を倒した秀吉にとって次の敵は織田信雄であり、その後ろにいる徳川家康です。「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。この戦いは一進一退で、徳川と豊臣が直接対決することなく、和睦を迎えます。その後、豊臣家が巨大化していき、徳川は対立することなく従臣という立場を選びます。この前後で人質合戦があったことは大河ドラマ「江」でも重要なシーンとして演出されていました。

 

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この頃、三河(静岡)を収める徳川と関東を収める北条はよい関係ありました。しかし北条を秀吉が攻め、徳川もしぶしぶ従います。戦後、徳川は秀吉によって三河から関八州に移動させられます。禄高は大幅に増えるのですが、北条を裏切った家康が関東を従えることは困難であり、徳川家は弱体化すると考えた事でしょう。つまり秀吉の作戦だったのです。戦争に弱い家康ですが江戸時代を含め、徳川の治世、政治力は特筆すべきです。徳川家康の力だけではなく、彼の家臣が政治力に長けていたのでしょう。家康は関東を掌握します。

 

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家康が弱かった事が遠因となり、無理な人民掌握はしなかったと考えています。「力で抑える」なんてことをすれば一揆がおきただけで負けてしまう。どんなビジネスでも「地域への貢献」が重視され、地元を軽視する企業はどんなに営業利益があっても弱体化します。江戸時代の封建主義であっても地域の支えは大きな力となります。街道整備による物流の改善、税金比率を低く抑え農業生産力向上への個人投資を促進する、戦の時でも円滑な兵糧供給ルートを整備する、また市民による兵糧協力の関係を健全に保つ。

 

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徳川家は江戸城に移ります。江戸時代に入ってもわかるように、徳川家は土木工事に力を入れています。治水工事、都市計画、その一方で関西からの距離を生かし、防衛のための投資は控える、江戸、つまり今の東京がインフラの面で優れた都市になっているのは江戸時代からの都市計画にあります。徳川家康は政治家として一流であり、その才能が開花したのは関八州に移動し、小田原城ではなく江戸城に収まったことにあるのではないでしょう。江戸は広い平野を持ち気候が穏やかなので無限の可能性を持った土地でした。家康が力をつけるには最適な場所だったと言えます。

 

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2015年4月14日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 家康にとっての本能寺

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武田信玄が亡くなってからの甲斐は弱く1675年、有名な長篠の戦で武田家に勝利した家康は領土を広げます。織田家は西に目を向けており、家康は織田家との同盟の強みを生かして東日本を征服していきます。ただし東には北条氏がいたので、三河から北に向かって領土を広げていました。そんな時期、家康が大阪の堺に外遊に来ていた時、本能寺の変が怒ります。なんたる油断か、この時、家康の家臣は数名しかいなかったのですが、服部半蔵の活躍で決死の大脱走劇を繰り広げます。家康が晩年に過去を振り返った時、この時が最大のピンチと言っていますが、すでに3回目のピンチです。

 

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軍事的な弱さは明確です、危機感がない。織田家や豊臣家には後世に名が知れた有名な武将や軍師がたくさんいますが、徳川家はどちらかといえば二流で有名どころはいません。秀吉の水攻めのような大胆な策もなく、数を頼った正攻法です。本能寺の変が起きたときでも、なぜそんな少人数で旅行していたのかわかりません。時代はまだ戦国の真っただ中、水戸黄門並に漫遊できる時期ではないのです。ただ織田信長でさえも本能寺に少人数で陣を貼っていたことを考えれば、関西は平定状態にあると勘違いしていたのかもしれません。

 

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逃げ帰った徳川家康は明智光秀を討つべく出陣。しかし光秀は既に秀吉に負けていました。人物比較は多面的に行わなければ正確さを失います。それでも戦争という一面で明らかに徳川家康は平凡です。生き延びた武勇伝のみで戦争で活躍した武勇伝はありません。豊臣秀吉や織田信長も「鬼神」と感じるほどに強くもありませんが、やはり日本をまとめ上げる事ができる戦略、方向性、能力を感じます。徳川家康は地方の一大名にしか見えませんが、運に助けられ徐々に領地を拡大します。

 

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徳川家康に勝利の女神がほほ笑むことを誰もが知っています。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」家康の性格をこんなに短文で表すなんて江戸時代の人もすごいですね。そう、家康は何もしていない、単に天下が転がり込んでくるのです。武田信玄が少し長生きするか本能寺の変が無ければ彼が将軍になる事はなかったでしょう。武田との戦いでも本能寺の変でも彼の役割は「生き延びる事」だけだったのです。それでは家康と秀吉の関係を見ていきましょう。

 

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2015年4月13日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 敗者としての桶狭間

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徳川家康はまだ徳川でも家康でもないのですが、もうすぐ名前を変えるのでそのままで行きます。

 

今川家で元服した家康は織田家を攻めるため桶狭間にいました。松平元康という名前で登場しています。桶狭間は今川家大将が討ち取られるという決定的な敗戦です。日本には数々の戦がありますが、単なる地方戦で総大将が打ち取られるという「事件」はほとんど聞きません。桶狭間の敗戦で徳川家康も自害しようとしますが僧侶に諭されて生き延びます。そして今川家が放棄した故郷、岡崎城に戻り復活を果たします。この時家康18歳、一度目の命拾いをしたのです。

 

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1562年、家康は20歳で今川家を見限り、織田家と同盟を結びます。有名な清州同盟です。岡崎城で独立した時点から家康は今川の敵でしたから、見限るというよりは今川家から庇護してくれる織田家との同盟が処世術だったのでしょう。この同盟は20年も続きます。対等同盟だったのに織田家が巨大になり従属同盟になりましたが、それでも続きました、裏切らなかった。20年後に何が起きたかと言えば「本能寺の変」です。なお清州同盟の頃、家康は武田家とも懇意の仲であり、共に今川を攻めます。背後の織田家は同盟を結んだので安心でき、少しずつ領土を広げていくのです。1566年には一向一揆などを鎮圧し、三河を平定します。ここで徳川家康を名乗ります。

 

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徳川は同盟を結んでいた武田家と折り合いが合わなくなります。武田が徳川を嫌ったのかもしれませんが、敵対状態となりました。徳川家康は浜松城に移ったのですが、ここからの家康の弱さは将来の天下人と思えないほどです。武田に責められ命からがら敗走、もう少し戦争が長引けば首を取られていたでしょう。転機は突然の武田軍後退であり、原因は信玄の死亡でした。この時が人生2度目の命拾いです。なりふりかまわず敗走し、生き延びる事の重要さを思い知らされます。

 

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さて、愛知県岡崎市と静岡県浜松市の地理を見てみましょう。岡崎氏は内陸で山の麓、守りには優れていそうです。浜松は天竜川の下流で開けていますが、甲州とはその天竜川でつながっています。武田家にとってみれば太平洋側の出口を抑えられた事、また天竜川を下って行けば攻めやすい場所に城が移動してきた事で三河攻めを始めたのではないでしょうか。家康が嫌われる一つの理由は「弱いのに…」という印象からかもしれません。英雄列伝には向かない実績です。しかし多くのビジネス書で書かれているように大きな失敗が多い人こそ反作用で大きな成功をするものです。

 

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2015年4月12日 (日)

日本の歴史を少し正確に理解する 竹千代

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アニメ竹千代物語、1975年だそうです。母と別れての人質生活…だった記憶が。竹千代は徳川家康の幼名です。

 

弱小の岡崎城主の息子、竹千代は幼少期に今川家の人質となります。母親と別れたのはアニメ通りです。一時期織田家の人質となり、織田信長と知り合ったそうです。しかし主に今川家の人質として育ち、今川家で元服します。年齢は豊臣秀吉より少し若い程度ですが75歳まで生きたので天下をとれました。最後まで食欲旺盛で、てんぷらを食べて死んだという伝説は有名ですが、そんなわけはありません。

 

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今川は大大名で王道の戦をします。そのせいで織田信長の奇襲に敗れたのかもしれませんが、徳川家康は今川を見て育ちます。家康も数に物を言わせた王道の戦争をするのですが、謀略にも長けています。特に服部半蔵など諜報部隊の利用が得意でした。関ヶ原での小早川の裏切りを見れば、謀略巧者と感じます。一方で直接対決は弱く、何度か死線をさまよう敗走をしています。徳川家康の戦法は孫子の兵法に似ています。家康は中国の英雄が大好きだったようで、体力より知力を使う武将と感じます。アニメで言えばコードギアスのルルーシュに似た戦い方です…って、わかりませんね(笑)幼少期は今川家と中国の武将に影響を受けて人格形成したと想像しています。

 

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徳川家康が人質生活で得た大きな利益は処世術ではなかったでしょうか。人質という四面楚歌の状態では、感情を殺してでも自分の安全を守り、生き延びて逆転の機会を待ちます。また自分の命を握っている支配者と渡り合っていく処世術は自然に学べたことでしょう。人質生活が彼の人格に大きく影響し、それがプラスであったことは間違いありません。ずるがしこい行動にはポーカーフェイスと笑顔が必要です。豊臣秀吉でさえも「秀頼が成人するまで国政を頼む」と信じてしまった(そしてすぐに裏切られた)家康のずるがしこさは全く表情に出なかったのでしょう。そう、テレビドラマは間違っています、徳川家康の俳優は明らかに悪人に見えます。本物の徳川家康は聖者のような善人に見えたはずです。

 

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ドラマの影響から子沢山で太っていてケチ(太っていたのもケチも事実です)、スケベ社長の雰囲気があって嫌われる理由なのかもしれませんが、両親が美形のため幼少期の竹千代は美男子だったろうと言われています。

 

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2015年4月11日 (土)

日本の歴史を少し正確に理解する 徳川家康はなぜ嫌われるのか

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徳川家康の話題を進める中で、一つのテーマが「徳川家康はなぜ日本人に嫌われるのか」。私も好きではありません。

 

戦国武将がイケメン男子に描かれるゲームの世界でも、徳川家康だけはあまりよい風貌を与えられません。徳川家康が主人公のドラマは少なく、ずいぶん前にNHK大河ドラマで扱われた記憶だけがあります。歴史物で主人公と言えば織田信長や豊臣秀吉が多く、脇役もしくは敵役として出てくるのが徳川家康です。織田信長の天下を奪ったのは明智光秀であり豊臣秀吉ではなかったので嫌われなかった。しかし豊臣秀吉の天下を「姑息な手段で」奪ったのが徳川家康であり、しかも彼の家系は征夷大将軍として300年も続くのです。ドラマ「江」でも、家康は嫌われ者でした。

 

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「逃走中」というバラエティ番組で炎上してしまう芸能人が何人かいます。主因はずるくて仲間に貢献することなく最後に利益を得る、人の活躍を自分の活躍にすり替える、人を陥れて自分が助かればよいと信じる、そして悪びれない。徹底的な処世術として強烈に優れているので賞金を手にすることが多いのですが、日本人は大嫌いです。嫌悪感はコントロールが難しい感情で、日本人が日本という社会の中で育てた国民共通の性格です。見た瞬間に嫌いになるのであって理由は説明できません。嫌われている歴史上の人物はほとんどが優秀な人ですが、日本人の嫌悪感に影響を受けて嫌われています。一方で織田信長や豊臣秀吉など大量殺人を犯した極悪人ですが、なぜか大人気です。

 

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歴史上の嫌われる人物の代表は徳川家康ですが他にもいます。平清盛は嫌悪感に触れる行動が少ないのに、日本人のヒーローである義経の敵、源家や貴族を抑圧して大きな利益を得たことが嫌われた原因かもしれません。源頼朝も同列です。大久保利通が嫌われるのは西郷隆盛との比較です。二人の話題はずいぶん先になりますが触れられたらいいなと楽しみにしています。他にも足利家の諸大名、明智光秀、岩崎弥太郎など嫌われた人はたくさんいますね。芸能人でも嫌われる方がいますが、多くは同時に視聴率を取ります。またアンチ巨人は巨人戦を「負けてくれ~」という気分で見てしまいます。絶対に間違えてはいけないのですが、嫌われるからといって悪人ではありません。しかも嫌われることで得られる利益は大きくて、一つのビジネス戦術なのです。

 

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それでは徳川家康のビジネス戦術を見ていきましょう。ちなみに「逃走中」で嫌われる芸能人は被害者でテレビ番組の悪意を感じており、私は演出だと理解しています。

 

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2015年4月10日 (金)

日本の歴史を少し正確に理解する 秀吉蟄居

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豊国神社に豊国大明神、豊臣秀吉が天皇家に与えられた神格ですが、彼は「八幡」を希望したそうで、遺言状にも書いてあります。

 

彼が衰弱していたことが天皇家としては幸いしたのでしょう、「八幡」は日本を代表する神であり、既に日本最大級の神社組織になっていました。「宇佐八幡宮」について、ここではり触れませんが、天皇家にとってアマテラスと並び立つほどに重要な先祖です。それを成り上がりの秀吉がとってかわろうとしているのです。天皇家は無視できませんから、新しい大明神を作成し、豊臣秀吉に与えたのです。神になるという願望は織田信長にもあったと考えられていますが文書は残っていません。豊臣秀吉の場合は明確に遺書に書いてありますし、徳川家康も東照宮に祀られています。戦国大名の一つの到達目標は天皇ではなく神になる事だったのですね。

 

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彼が亡くなる前の一大イベントである醍醐の花見、醍醐寺で催された女性だらけの一大イベントです。男性で招かれたのは秀頼と前田利家位だとか。この後に秀吉は急に体調を崩します。ただ秀吉の最後が近い事を感じ取って催された花見とも言われており、秀吉の病状がかなり前から悪化していたことがわかります。彼は62歳で死亡したと言われており、50台の後半には体調を崩し始めていたようです。朝鮮出兵は秀吉の正常な判断と感じており、55歳時点ではひどくなかったようです。56歳の時に秀頼が生まれているからこの時もまだ元気だったのでしょうか。しかし57歳ころから極端な残虐性が出てきており、この頃から徐々に弱っていったのではないかと感じています。異常な残虐性は痛みによる癇癪か、何らかの脳障害があったと信じたいのです。既に人間のなせる悪行ではなくなっています。私見ですが豊臣秀吉は50代後半で老衰の症状が出たと記録があります。しかし若年性アルツハイマーでなければそのような症状は出ません。そこで気になったのが豊臣秀吉の年齢です。農家の出でいつ生まれたのか本当にわかっていたでしょうか。北条早雲の例でみるように1020歳くらいサバを読んでいたのではないでしょうか。個人的な感想ですが本当は80歳くらいだったりして。それなら老衰もあるでしょう。

 

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彼の不幸はやはり子孫が少なく、早死にだったことでしょう。側室は16人という説もあれば300人という説もありますが、男児は3人、その中で育ったのは秀頼だけです。しかも秀吉が晩年の子供で、とても日本を統治する事はできません。関ヶ原の戦いになぜ豊臣家が出てこなかったのか、私は少し疑問に感じていましたが答えは簡単です。当時は7歳、小学校12年生程度だったのです。戦争に出向いても足手まといなだけですね。

 

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さて徳川家はなぜここまで日本人に嫌われるのか、その古狸ぶりを見ていきましょう。

 

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2015年4月 9日 (木)

日本の歴史を少し正確に理解する 朝鮮出兵 驚きの数

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16世紀世界最大の戦争である朝鮮出兵、何がすごいでしょうか。

 

まず15万人を朝鮮半島に移動させるのですから、1000人乗りのフェリーでも150往復です。当時は帆船ですから船に100人程度しか乗れなかったとして何艘の船を用意したのでしょう。出兵を決めてから造船したとすれば、その製造能力は驚きですね。秀吉の政治で工業力、商業力が大きく発達していたと感じられます。100人乗りであれば1500往復、少なくとも100隻程度15往復が妥当だとしても、当時の日本に造船所は何か所あったのでしょうか。もしくは既にその程度の戦艦を日本(可能性として毛利)が常備していたのかもしれません。船は九州から朝鮮に人物を渡すだけではなく、全国各地から九州に人と兵糧を集めなければいけません。電車の無い時代ですし江戸時代に発達した街道や宿場も戦国時代にはどれほど整備されていたか。船での移動が中心だったとすればプラスで100隻程度、日本は海洋大国だったのでしょうね。瀬戸内海を眺めれば大量の船舶が行き来していたのではないでしょうか。

 

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兵士の数200万人、男性人口の約20%が軍人だったことにも驚きます。当時のヨーロッパの小さな国の総人口程度に相当しますから、戦国時代の日本にいかに戦争が多かったのかわかります。しかも戦死した男性を差し引いた後の人数ですから+、豊臣家の時代に200万人も軍人が残っていたというのは脅威です。刀狩を行った後の人数ですからね。刀は人を切ると刃が欠けるので一人で何本か必要です。火縄銃もかなり出回っていたそうですし弾丸も火薬も必要です。武器の生産能力もすごかったのでしょうね。

 

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テレビとインターネットの時代に住む私たちにとって、不思議は情報伝達です。大阪と朝鮮半島全域で戦う軍隊との通信はさすがにリアルタイム性に欠けます。飛脚というシステムがありましたし、船での情報伝達もあったでしょう。最も早い伝達方法は光学的な手法で、戦国時代の地方戦では狼煙が使われ、広範囲に素早い伝達を行ったそうで、一つの藩の端から端程度であれば1日で伝達できたそうです。ただし情報密度は限定され、雨や夜には使えないという弱点もありました。またさすがに朝鮮半島とのやり取りに狼煙は利用できませんね。

 

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豊臣時代の最後は不思議がいっぱいです。

 

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2015年4月 8日 (水)

日本の歴史を少し正確に理解する 慶長の役

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まずは史実を整理しましょう。

 

文禄の役の休戦協定は嘘が入っていました。秀吉には「明が降伏した」と報告され、明では「秀吉が降伏した」と報告されたそうです。どちらも嘘でした。嘘を知った秀吉が怒って起こした戦争と言われているのが1597年の慶長の役です。再び14万人の兵力を送り込んでおり、前回の反省が全く生きていません。そうは言いながらも順調な勢いで侵略を進めていたところに秀吉が急死したため日本が退散しています。秀頼はまだ幼少ですから豊臣の指揮管理体系が崩壊したのです。

 

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この戦争は日本、韓国、中国に多大な被害をもたらします。まず韓国は治安が大きく悪化し、李氏朝鮮の荒廃が一段と進んでしまいます。明はポルトガルと日本との戦いで軍事費がかさみ弱体化します。日本の場合、多くの大名が朝鮮半島での戦争で兵力や資金を失い弱体化します。誰も得をしなかった消耗戦なのですが、戦争に参加しなかった徳川家康だけが戦争前の力を保持している状態です。たとえ秀吉が生きていても、既に徳川家康には勝てなかったかもしれません。

 

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秀吉の死因はわかっていませんが、病死であることは確かでしょう。老衰には早すぎますね。脳障害や認知症という話もありますが、これらは死因にはなりません。一般的に言われている癌や性病、もしくはそれらの合併症の可能性があるのかもしれません。現代医学でも死因がわからない事は少なくありませんから「病死」という表現が適切で、それ以上の分析は難しいですね。有名な醍醐の花見の後に体調を崩し、徐々に弱っていったそうです。前線にはどのような情報が流れていたかわかりませんが、最後まで秀吉の死亡を知らずに戦っていた人も少なくないはずです。

 

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この戦争が今でも日本と韓国、北朝鮮の関係に禍根を残している事は悲しいですね。大東亜共栄圏の考え方とよく似ていました。日本の生産力に限界を感じ、中国の資源(食料)に救いを求めた、ヨーロッパ諸国への防衛線としてアジアを使おうとした、言葉を変えれば大東亜共栄圏が秀吉の真似です。中国は元や清の時代にモンゴルに侵略されます。元は日本にも攻め入ってきました。日本が長い歴史で常に中国の侵略を恐れていたことは間違いなく、「元」の例を見て中国を占領しようという気持ちもあったでしょう。中原に上るというのはアジアの共通目標でした。朝鮮出兵は明らかな侵略戦争であり、秀吉擁護は意味を成しませ。大東亜共栄圏は一段と深刻な問題ですけどね。

 

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2015年4月 7日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 文禄の役

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まずは史実を整理します。

 

「唐入り」とよばれた秀吉の朝鮮半島侵出の目的は彼の支配範囲を中国に広げ、明を支配する事でした。当時の「李氏朝鮮」は統率力が弱く、日本で言えば後期の室町幕府状態に近い感覚と想像します。秀吉は李氏朝鮮を完全になめており「明に進出するので朝鮮半島を通過させるよう」要求します。しかし李氏朝鮮は秀吉の通行を拒絶します。そこで秀吉が先に李氏朝鮮に戦を挑み朝鮮半島に進出、1592年の文禄の役が始まるのです。当時2000万人ほどの人口しかいなかった日本から朝鮮半島に進出したのはなんと15万人以上、16世紀では世界最大クラスの侵略戦争だそうです。当時の日本の武士人口は200万人と言われています。男性人口の約20%ですからね、多すぎます。

 

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それでは無謀な作戦だったのでしょうか。以前「兵糧」の重要性を考えました。侵略しても生産力を維持するために農地は荒らさず、兵糧ルートを確保して前に進まなければいけません。しかし朝鮮半島に15万人も渡した上、日本海があるので兵糧ルートに限界があります。秀吉は中国を目指していたので、朝鮮半島は略奪で乗り切ろうとしていたようですが、明らかに無謀です。現地の生産力がわからない、日本とは食文化が違う、しかも李氏朝鮮は統制が崩れ、農業生産力が落ちていたと予想出来ます。「腹が減っては、戦はできない」鉄則ですね。

 

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それでも秀吉の軍隊は平壌あたりまで攻め入ったようです。ここで明の部隊が援軍に駆けつけ(本来は日本と明の戦争ですしね)秀吉は敗北まではしないもの、「明との」休戦協定で撤退します。これが文禄の役です。もともと秀吉は戦争上手と言えない部分があり、賤ヶ岳でも前田の寝返りが無ければ危なかった程度の実力です。個人的にはやはり無謀な作戦だったと感じています。

 

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2015年4月 6日 (月)

日本の歴史を少し正確に理解する 豊臣秀次

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豊臣秀次は豊臣秀吉の妹の息子で、本来は三好氏です。秀吉の下で武将として働き、常勝とは言いませんがある程度の良い戦績を収めています。

 

彼の運命は秀吉の一人息子の鶴丸が病死したため跡継ぎがおらず、急に秀吉の養子となり跡継ぎになった事で転がり始めます。「わが世の春」だったのか、荷が重いと落ち込んだのか20代前半の秀次には判断が難しかったのではないでしょうか。世継ぎとして関白となり聚楽第に入りました。一武将だったのに急に、次期天下人、関白、超出世物語ですが下克上ではありません。単に血のつながりで任命されただけであり、実力で勝ち取った地位ではないのです。「薄氷の地位」であることは本人にも認識があったはずです。それでもやはり、彼にとっては幸運でした、ここまでは。

 

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暗雲が立ち込めたのは秀吉と茶々に二人目(三男)の息子である秀頼が生まれた時です。秀次は秀吉から謀反の罪で出家を指示され、すぐに切腹させられ、その上晒首、それどころか、総勢39名の一族粛清。切腹した後での晒首や一族粛清は例がありません。当時の事情に詳しくない私でも異常性を感じます。そもそも謀反の内容自体が明確になっていませんが、部下は理由がわかっていたはずです。秀吉が生きているうちに関白を渡された事がトラブルの始まりでしたね。家康と利家の話は後日になりますが、本当の息子であってもいざこざはあります。

 

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秀次への処罰は二つの大きな実害を豊臣家にもたらします。一つは粛清で豊臣家の親族が激減した事です。もともと下克上で成り上がった秀吉は親族が多くありません。大名は普通一夫多妻で多くの子供を持ちますから、少なくとも親戚の数には困りません。徳川家が良い例ですね、明治まで続きましたから。しかし秀吉は「ねね」と武家階層ではありえない恋愛結婚をしており、彼女の嫉妬を買って、なかなか一夫多妻にはできませんでした。世継ぎができなかった。「ねね」に子供がいない、結果として秀頼だけが親族であとの親族は自分の手で全滅させたことになります。もう一つは秀次へのあまりにも残虐な処罰で、大名の心が秀吉から離れた事です。秀吉寄りの多くの大名が関ヶ原では家康につきますが、特に秀次側であった大名全員が東軍になったのです。豊臣家が滅びる大きなターニングポイントが秀次の処罰でした。

 

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さて秀吉の晩年の行動を整理してきました。いよいよ朝鮮出兵を見ていきましょう。

 

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2015年4月 5日 (日)

日本の歴史を少し正しく理解する キリスト教の植民地政策

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日本の鎖国は江戸時代の話、それまではヨーロッパの情報はしっかりと日本に届いていました。スペインとポルトガルによる植民地政策は激烈でした。有名なのは1510年代、スペインによる南アメリカでの大殺戮です。この大殺戮についてキリスト教との関係をあまり詳しく書くと批判を浴びる事でしょう。ただ西洋人が十字架を背負って植民地を目指したのは確かであり、背景には14世紀から19世紀まで続いたヨーロッパの「小氷河期」があります。ヨーロッパでは氷河が拡大し、夏が無くなり、飢饉が発生します。「食糧不足」は熾烈な状況であり、食料もしくは防腐剤が必要になってきました。「香辛料」を求めて旅に出たという表現がよく使われます。スエズ運河が無いので、さすがに食料を他の大陸から持ってくる輸送力はなかったでしょうからね。

 

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最初はアフリカでした。それからアメリカです。キリスト教社会は「地球は丸い」という事に気が付きます。キリスト教は1529年に歴史上最悪ともいえるサラゴサ条約を制定します。これは世界をポルトガルとスペインで二分し、植民地化を許可、正当化する条約です。日本はポルトガル領域です。ポルトガルはアジアへ、そして日本へ向かいます。1543年、ポルトガルが日本の種子島に到着、そこで宣教師を派遣します。1549年に日本に来たフランシスコ・ザビエルです。1557年ポルトガルがマカオを居留地とし、1571年には長崎に商館を建てます。ここに二つの重要なポイントがあります。マカオを居留地にしたのは「明」がポルトガルに抵抗できなかったことを意味する事、そしてポルトガルが日本の近くに重要な軍事拠点を築いたことです。織田信長と行動を共にした「ルイス・フロイス」は日本占領の先兵と誰もが理解できたでしょう。

 

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先にポルトガルの恐怖に気が付いたのは織田信長です。1587年に「伴天連追放令」を出してイエズス会を追放しようとします。しかしポルトガルの勢力は衰えず、このまま日本が植民地になってもおかしくありませんでした。「個人的な意見」と強調しますが、豊臣秀吉の朝鮮出兵はいわゆる「大東亜共栄圏」と同じ考え方だったのではないでしょうか。日本に来る前に中国でポルトガルをたたく、マカオをたたく、それほどの危機感を持っていたのでしょう。しかし秀吉は明の力を過小評価しており、結局、朝鮮半島の人たちに迷惑をかけただけで終わるのです。

 

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なぜポルトガルは日本を植民地化しなかったのでしょうか。1580年、ポルトガルはスペインに敗北します。更に1602年にはオランダとの戦争が起こりそれから60年も続きます。ポルトガルのマカオ支社は後ろ盾を失っており、オランダ時代が来るのです。オランダのアジア占領は江戸時代の話であり、もう少し先になります。なおイエズス会は日本で猛威を振るい70万人の信者を得たと言われています。キリスト教徒が増えすぎて、侵略戦争を起こしにくかったのかもしれません。ただ忘れてはいけないのはヨーロッパに小氷河期が来ていた事です。今のヨーロッパは温暖で氷河もずいぶん減りました。地球温暖化と言いますが、実は寒冷化した時の方が世界の秩序は乱れます。貿易が発達した今、食糧難はどうにか乗り切れるかもしれませんが、かつてのように氷河がヨーロッパを覆って住めなくなれば、やはり民族移動を伴う戦争は起こってしまうのかもしれません。今、北極振動が拡大しています。もしかすると地球は再び寒冷化に向かっているのかもしれません。寒冷化の要因は太陽活動と火山活動であり、どちらも予測は不可能です。

 

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2015年4月 4日 (土)

日本の歴史を少し正しく理解する 豊臣秀吉は天下統一できたのか

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豊臣秀吉の天下のピークは1590年頃です。金銭面では勝る秀吉ですが、徳川家康は250万石で秀吉の領地より巨大、同盟を結んだ多くの戦国大名も生き残ったまま。天下統一ではなく単なる敵対する大名が薄っぺらの同盟を結んだ国家にすぎず、この状況は江戸時代にも続きます。日本という一つの国家ではなく、現在のヨーロッパに近いと言えるでしょう。少し年表を見てみれば豊臣秀吉は1585年に関白、1586年に豊臣姓となり、1587年に足利将軍家が出家し豊臣家が西日本の支配者となります。秀吉が征夷大将軍にならなかった一つの理由は少し見えるような気がしませんか?足利将軍は彼が関白になった時でも広島県で健在である事と「征夷」という言葉には東日本の印象が強く、東には徳川も北条もいるので、征夷大将軍は同盟国に対して印象が悪いですね。その北条も1589年には豊臣に征伐されています。

 

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子供の無かった秀吉は晩年に二人の息子をもうけます。一人目は鶴丸で1589年に生まれ1591年に死亡しています。秀吉の悲しみは親として当然ですが、天下人だけに周りは大迷惑です。まず関白職を甥に譲り、自分は太閤になります。千利休の切腹もこの時期で、子供が死亡した事による狂気じみた行為が見られます。ただし繰り返しますが親としての取り乱し方としておかしくはないと感じています。つまりこの時点で秀吉が脳障害や精神疾患に陥っていた可能性は低いと感じるのです。しかし息子が亡くなったことが一つの原因で、正常な判断力を失いつつあるかもしれません。一方で1592年に織田家を再興しており、明治維新まで続くのです。子供を思う気持ちとして織田信長の気持ちを慮り再興したのか、それとも自分の子供の死が織田家の呪いとでも感じたのか。

 

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なぜここまで、豊臣秀吉の精神状態を気にするかと言えば1592年に「文禄の役」が起こるからです。朝鮮半島はあくまでも経路であり、彼が中国、つまり「明」を制圧しようとしたことは明確です。朝鮮出兵については豊臣秀吉の人生の最後で考えたいのでここでは深入りしません。もう一つの問題は1593年に秀頼が生まれた事です。まさかもう子供は生まれる事が無いだろうと秀次に関白を譲ったのですが、自分の失敗に気が付きます。1595年に秀次は謀反の罪で出家し、すぐに切腹となり、晒首です。彼は秀吉の養子であり、実の姉の息子であり、家督まで譲ろうとしていたのです。秀頼が鶴丸より長く生きた瞬間の事件だったとも言えます。秀吉が55歳から58歳ころの事です。

 

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1596年、秀吉はキリスト教を厳しく禁じ26人のキリスト教関係者を死刑にします。これは黒船と同じような反応であり、朝鮮出兵も一連の流れと考えています。もちろん多くの歴史学者も似たような意見を持っているのですが、次回はまずその歴史を見てみましょう。

 

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2015年4月 3日 (金)

日本の歴史を少し正しく理解する 聚楽第

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安土城と同じく全容がわからない聚楽第。京都の上京区あたりにあったのですが、邸宅というより城に近い存在だったようです。

 

1587年に秀吉が関白を執務するための事務所として完成、1591年に豊臣秀吉が関白を退き聚楽第と関白を豊臣秀次に譲ります。しかし1595年に秀次を追放して切腹させ秀吉は聚楽第を1596年に徹底的に破壊するのです。この破壊の仕方に異常性を感じますが「秀吉が異常」と決めつけると全ての原因が分からなくなりますので、秀吉は正常であり政治的な判断をしていたと推定して話を進めます。茶々に自分の子供が生まれたこと(秀頼)が原因で秀次を切腹させたことには親の立場として納得がいきます。しかし既に秀次のいなくなった聚楽第を跡形もなくなるほど叩き壊す理由は何でしょうか。

 

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秀吉の病状について、50代後半から老衰の症状が見られたという表現を見つける事ができます。しかしいくら寿命が短い戦国時代でも50代の老衰はあり得ないので衰弱に似た疾病と考えたほうがよさそうです。具体的な推定病状として脳障害を含む疾病があったことが考えられますが、とにかく千利休に切腹を命じた頃、もしくは豊臣秀次に関白職を譲った頃から、まるで織田信長が乗り移ったような残虐性を感じられます。境目は1590年後半から1591年にかけて、彼が53歳から54歳の頃です。聚楽第の破壊は4年ほど後のことになりますから、91年から94年までの行動は並べてみる必要がありそうです。

 

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豊臣秀吉の行動を並べ立てる前に、まずは聚楽第です。二条城も京都の北にある城ですが、江戸時代に建設されました。聚楽第は大徳寺や北野天満宮などがある京都の北に近く、応仁の乱以前は平安京の内裏があった場所あたりのようです。大徳寺に残る唐門は聚楽第の一部であったと考えられています。大阪城もそうですが、秀吉は大建造物の跡地に城を建てるのが好きですね。天皇家の内裏の上に城を作ったのですから当時の貴族はどのように感じたのでしょうか。

 

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なぜ聚楽第を壊したか、まだ理解できませんね。彼の行動をもう少し探ってみる必要がありそうです。

 

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2015年4月 2日 (木)

日本の歴史を少し正しく理解する 千利休

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日本文化には不思議があります。その一つが「茶道」です。

 

茶道とは「お茶をたてて飲む」儀式です。結婚式など違う祭典と結びつくのではなく、独立の芸道として成立しているのです。海外にも高貴なお茶を飲む習慣はありますが、儀式として成立している「茶道」は世界的に見ても不思議な芸道ではないでしょうか。千利休は茶道の開発者ではありませんが、茶道を武士階層に広めたことに大きな功績があります。茶道はなぜ武士階層に広まったのでしょう。

 

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千利休は商人、堺の出身です。出身地が私の家から近い事もあって、今でもよく聞く名前であり、千利休のイベントは少なくありません。彼は堺を管理した織田信長に発掘されます。織田信長は優秀な人を見つける天才ですね。茶道の特徴は高額な茶器、一国に相当する価値の茶碗もあったのだとか。また狭い密室で「冷静に」執り行われるため、密談には最適でした。現代の政治では料亭が使われますが、より機密性が高かったはずです。その密談の中で千利休がどれほどの役割を果たしていたのかわかりませんが、残っている逸話からすれば彼は180cmクラスの当時としては巨漢であり、大胆な演出と大名クラスにも怖気づかない度胸の持ち主だったようです。

 

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そんな千利休が70歳にもなって豊臣秀吉の逆鱗に触れ切腹を申し付けられたのには「密室会議」に何らかの原因があったと考えます。大徳寺山門の通説は信じられませんが、豊臣秀吉が晩年、おかしな行動に出ている事も確かです。何のドラマか忘れましたが朝鮮出兵に反対した事が切腹の原因だったように描いていました。原因はわかりませんが、文化人であった千利休が切腹を言い渡されるのですから、彼は幕僚クラスの重要な軍師だったのでしょう。切腹には政治的な意見の相違や、重要な軍事情報を他に大名に漏えいした等の理由があったはずです。死罪の後の首のさらされ方も残酷で、よほど豪胆な行動だったと想像できます。

 

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千利休の切腹は1591年、この頃から「現在の尺度」で考えたとき豊臣秀吉の行動は奇異になります。本当に気が狂ったのか、それとも正常で論理的な判断だったのか、1592年の朝鮮出兵を考えてみる前にもう少し1591年ごろの彼の行動を整理します。

 

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2015年4月 1日 (水)

日本の歴史を少し正しく理解する 関白 豊臣秀吉

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賤ヶ岳後の時代は激流です。1582年に賤ヶ岳で勝利した秀吉は、1583年に石山本願寺跡地を踏みつぶす形で大坂城を築城、1584年に徳川と戦ったときに実質的に織田家支配が消滅し、1586年、つまり賤ヶ岳からわずか4年で征夷大将軍ではなく関白となって「豊臣」秀吉を名乗ります。この間で一番のターニングポイントは織田・徳川との戦いである1584年の「小牧・長久手の戦い」です。織田信雄は羽柴秀吉に安土城を追い出され、それに怒った信雄が羽柴寄りの家臣を処刑し、それに怒った秀吉が挙兵するという報復戦ですが、信雄はまるで羽柴秀吉の掌で操られているように見えますね。

 

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織田には徳川が加担しますが、ここで池田氏が織田家を裏切ります。この裏切りが無ければ羽柴は負けていたとさえ感じられます。事実、秀吉は劣勢で最後に徳川、織田と休戦協定を結ばなければ危なかったとさえ感じます。この戦闘において徳川が羽柴の裏をかけたのは忍者の存在です。諜報活動、スパイ活動が戦争に大きな効果を見せた戦闘でした。もちろん羽柴も諜報部隊を持っていたのでしょうが、徳川側が一枚上手だったように見えます。現代の日本社会は諜報活動を軽視しがちで、特別秘密保護法に反対する人も多いのですが、諜報活動は国の命運を左右します。機密情報は国民を守るためにも秘密にすべきという事はこの小牧・長久手の戦いからわかるのです。この戦いで活躍したのは徳川家康と前田利家であり、豊臣家後の勢力が決まり始めています。ちなみに織田信雄も生き残ります。織田家は滅びたわけではなく、豊臣により復活が図られ、江戸時代を乗り切り廃藩置県まで続いているのです。スケート選手として織田家の系譜が有名になりましたね。

 

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さて豊臣秀吉は「関白」を名乗り始めます。関白とは本来、天皇が幼少の時に政治を代行する貴族の役職です。「摂関家」から必ず任命される役柄であり、秀吉は近衛家(本姓は藤原家)の一員として関白を宣言されます。征夷大将軍と比べれば明らかに高い位の貴族であり、貴族社会としては屈辱的だった事でしょう。なにせ豊臣秀吉は農家の出身ですからね。その後、太政大臣にも任命されます。一方で藤原家になった以上、源氏しか任命されない征夷大将軍にはなれません。

 

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ところで1586年には中部地方で大地震が発生しています。震源地はフォッサマグナの上、内陸だったのですが琵琶湖を含め津波を伴っており、その巨大さがわかります。余震や火山噴火も発生したようです。徳川と豊臣が休戦状態に陥ったのは中部地方に発生したこの地震の影響もあったようです。戦争している場合ではないほどの大被害で、復興優先として休戦せざるを得なかったようです。

 

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