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2015年3月18日 (水)

日本の歴史を少し正しく理解する 長篠の戦

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「天下布武」の印、これは織田信長が天下人であると宣言している事を意味します。

 

愛知県庁の知事が自分の名前の印鑑を使わず、「日本の支配者」という印鑑を押しはじめたら誰だって驚きますよね。しかもまだ足利家は残っていますし、天皇家が認めたわけでもありません。当然、将軍家は承服できず織田家に戦を挑みます。その時に足利家は武田家に援軍を頼む、そして初めて正義の戦争のお墨付きを得た武田家が京都に向かい始めるのです。最初は隣接する徳川家康との戦いになるはずだったのですが…武田信玄が死亡して撤退するのです。幸運の女神は織田信長だけではなく、徳川家康にも微笑みました。当時、各地で戦争を繰り広げていた織田家にとって、武田信玄に勝てる「確実な」見込みはなかったはずですが、勝手に撤退していったのです。

 

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その後、武田勝頼が織田家に向かって進軍したのが1575年の長篠の戦です。「時すでに遅し」、関西に基盤を固めた織田家は徳川、柴田、前田、羽柴など最強の大群で武田家に立ち向かいます。「若造」武田勝頼は部下に対して信頼がありません。武田信玄も下克上的な存在でしたから、本人がいなくなると子供にまで義理を通す気持ちがわかなかったのでしょう。しかも織田軍は既に火縄銃を大量に持っています。戦国初期のような地形を利用した武田騎馬戦は大量の火縄銃には勝てません。私の家に近い堺は火縄銃の生産で有名な地域でしたから町の祭りで火縄銃を見かける事がありました。今のライフルなどと違い、わずか数丁でもものすごい爆音で子供が泣くほどです。100を超える火縄銃に騎馬が驚いて前に進めなくなる効果もあったのでしょう。長篠の戦で武田軍は自暴自棄の自滅戦とも言えます。

 

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さて長篠の戦がどれほど遅かったのか。桶狭間は1560年です。この時点では防衛力の弱い清州城におり、ここで攻めれば武田の勝利は間違いなしです。織田信長は1563年に小牧山城に移動、この城の防衛機能の高さは2015年の発掘でわかったそうでホットニュースでした。1567年に岐阜城に移転、1568年上洛、1569年には浅井と朝倉を討ち、1571年に比叡山焼き討ち、1573年に足利将軍を滅し1574年に信長は公卿になります。1570年くらいまでであれば商機があったはずですが、1575年は遅い、遅すぎです。1560年近辺では川中島の戦いが続いているので仕方がないとして、西に進行を始めたのが1571年頃、その後、武田信玄が死亡します。ここでさえも少し遅い、武田は時流を見る目が無かったのでしょう。もし時流を感じる事が出来れば1560年代の前半に織田家を攻めるべきでした。武田は強すぎた、だから織田家を軽視したのでしょう。最後のチャンスは1569年、織田家が浅井、朝倉、本願寺と戦っている頃です。比叡山焼き討ちの頃、既に織田家は日本最強の軍事力になっていたのでしょう、1575年に武田家が勝てるわけがないのです。

 

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まだ上杉謙信も毛利家も残っています。本願寺との争いや高野山との確執も続いています。しかし世の中は信長が天下人になると感じ始めた頃でしょう。

 

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