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2015年3月

2015年3月31日 (火)

日本の歴史を少し正しく理解する お市

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羽柴の苗字のうち柴の字は柴田勝家からもらいました。NHKの大河ドラマ「江」はわかりやすく秀吉とお市、そして柴田の三角関係を表現していました。しかしこれは物語で、事実とは違うようです。お市は不幸な女性として描かれることが多いのですが、信長の妹であり、その人生は他力本願に描かれることが多いのですが実は戦略的で愛情にとんだ人物のようです。ちなみに娘、お江は二代将軍の妻、徳川秀頼の正室、そして子孫に天皇家がいるのです。織田信長にも強い家族愛を感じられますが、お市は一段と強い家族愛を持っているように見えます。

 

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最初は浅井に嫁ぎます。とても仲の良い夫婦だったそうです。子供は5人いたようですが、浅井の嫡男となる息子二人は奪われます。この時はまだ27歳、3人の娘とはその後も仲良く暮らしますが、兄、織田信長が暗殺されます。その後、羽柴秀吉の宿敵ともいえる柴田勝家と秀吉の紹介で結婚しますが、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れると、勝家と共に自害します。自害した時は37歳でした。清州会議から賤ヶ岳は関ヶ原以上に重要な戦いと感じているので、話題を後日に残しておきます。

 

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戦国時代でも有名な美人であったお市ですが、信長は「市が男だったらよき武将になっていたであろう」と言ったのです。あの人の才能を見抜く信長の言葉です。だから私はお市が戦略家だったと考えるのです。もちろん彼女が戦争に加担する事はありません。彼女は女の戦いを繰り広げたのです。娘の茶々は秀吉が亡くなった後、豊臣家の実質的な支配者となり、国を動かし家康と戦います。お江は徳川家の跡継ぎ問題で有名な残虐な性格とも言われている女傑です。お江につながる女の戦国時代のヒロインを育てたのは母の英才教育であったと考えてもおかしくはありません。お市が柴田と結婚したのも大いなる策略を感じます。個人的な感覚ですが、彼女には吉田松陰と似たような香りが鼻につくのです。

 

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ここが日本の歴史の悪い所で、女性の歴史が十分に残っていない、戦争ばかりを取り上げる悪い癖があります。織田家の女たちの争いは、男たちの争い以上にドロドロとしているのではないでしょうか。

 

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2015年3月30日 (月)

日本の歴史を少し正しく理解する 木下藤吉郎

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豊臣秀吉は1537年頃に生まれたようです。本人は足軽と言っていますが、農民もしくは当時の身分でそれ以下の階級だったようです。苗字の「木下」は妻の「ねね」の姓という話もあり、借り物の苗字、生まれたときに苗字はなかったのでしょう。藤吉郎秀吉は織田信長には住込みの手伝いとして働き始めたようです。草履を懐で温めた話は有名ですね。身長が低い事もあって織田信長からは「猿」と呼ばれていたようですが、信長が愛着のあるあだ名をつけるほど気に入っていたことに間違いありません。

 

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木下藤吉郎は右手に六本の指があったと言われています。インドへ出張した時、インドのエンジニアが多指で、小指が2本ある6本指でした。驚いたことに6本目の指は普通に機能しており、キーボードを使うときに便利に見えました。見た目さえ気にしなければ6本目の指は利点にしかならないのです。木下藤吉郎が自分の容姿を気にしていたことは有名な話ですが、それは晩年の話です。容姿、背が低い事、指が多い事、これらの弱点を強みに生かす人物だったのではないかと感じます。ざっくり言えば誰からも愛される人だったのではないでしょうか。

 

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信長に仕え、文官を歴任しているようですが10年ほどの間、歴史の表舞台には出てきません。なにせ小間使いから成り上がっているのですから時間はかかります。武士ではなかった事もあって当時の武士では考えられない恋愛結婚もしています。1568年ごろから武将の名前に秀吉が出てきますが、一番有名なのは浅井、朝倉との戦いである1570年の姉川の戦いで、ここから「お市」から「茶々」につながる物語が始まります。この武功により1573年に長浜城を任された秀吉は羽柴という名前を名乗るようになります。これは丹波と柴田という信長の大将軍2名から一字ずつもらっているのです。この辺りが人に愛される技術だったのでしょうか。この時、信長より4歳若い秀吉は35歳です。

 

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ちなみに彼の身長は150160cm程度だったとか。戦国時代においてはそれほど背が低いとは言えないような気がしています。彼が死亡したのは62歳ですが50代後半、つまりいわくつきの朝鮮出兵の頃からは少し行動がおかしくなっています。彼の本当の活躍はこれからわずか20年…そう聞くと、私の人生の20年は平凡な日々だったと悲しくなりそうです。

 

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2015年3月29日 (日)

日本の歴史を少し正しく理解する 因果応報

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武力により奪った権力は武力により奪われる、戦国時代の因果応報。

 

織田本家打倒で下克上を達成した織田信長、織田信長にクーデターを起こした後に討伐された明智光秀、織田信長の子孫を担ぎ関白となった豊臣秀吉、豊臣秀吉の息子を庇護すると宣言しておきながら根絶やしにした徳川家康。最後に残った徳川家康が日本国民に嫌われているのも因果応報でしょう。徳川家も明治維新という因果応報を受けます。この徳川幕府を終わらせたのは関ヶ原で敗者となった長州の毛利と薩摩の島津なのですから。

 

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明智光秀の三日天下は興味がありません。娘の細川ガラシャは現代人が好む悲劇のヒロインですが、彼女にも興味がありません。ひとつ興味を感じるのは明智光秀が生き残り天海という人物になったという説です。天海は徳川家康の参謀となった僧侶で、この説は嘘くさい。ただ間違いないのは主君への謀反であるにもかかわらず明智光秀の親族は生き残り、今でも末裔は存在します。つまり豊臣も徳川も明智光秀を極端に毛嫌いはしていないのです。当然ですね、明智光秀がいなければ豊臣秀吉が関白に、徳川家康が将軍になる事はありませんでした。ミステリー小説の犯人を推理する鉄則として「誰が最後に一番得をしたのか」を考えます。明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康は織田信長と行動を共にしており、同じ境遇にあり、心根は遠からず似通ったものだったと考えています。豊臣秀吉は君主への義理を見せるため明智光秀を倒しますが、明智光秀に対する恨みはなかったはずです。だから天海の物語が想像されたのでしょう。

 

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日本の歴史で絶対君主に最も近かったのは豊臣秀吉と考えています。ただし絶対君主の設計図は織田信長が作りました。徳川家康は関ヶ原に勝ち、征夷大将軍となりましたが外様大名が存在し絶対君主というより連邦国家の代表です。江戸時代の話は先に回して豊臣秀吉を見ていきましょう。苗字も持たなかった農夫が実質的な国王に到達した日本の歴史で唯一の成り上がり者です。もちろん会社員から総理大臣という話はよく聞きますが、主権は国民にあり総理大臣は支配者ではありません。

 

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さて豊臣秀吉、いえ豊国大明神はどのように因果応報を受けるのでしょうか。

 

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2015年3月28日 (土)

日本の歴史を少し正しく理解する 本能寺の変の謎 その2

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その1との繰り返しが多いと感じていますが、自分が明智光秀になった気分で寝る前に彼の心の動きを考えていると寝られなくなったので、もう一度考えてみたいのです。

 

決断の時、明智光秀のまわりにはたくさんの武将がいたでしょう。その中で、「敵は本能寺にあり」と踵を返します。しかし誰も信長に通報しなかったのです。何千人もいた、足軽まで含む部隊の誰一人、通報しなかったのです。ありえることでしょうか。現代、自民党のような少人数の中でも意見が割れる事があり、離反する人もいます。よほどみんなが強く同じ意見を持っていなければ離反者がでます。そこで考えたのは柴田勝家や羽柴秀吉が同じ考えを持っていなかったのか、明智光秀が最初に謀反に出たのですが、羽柴秀吉の移動の速さを考えたとき、他の武将も同じことを考えていたのではないか、つまり原因が織田信長にあり、既に誰もが我慢できなくなっていた、クーデターは部下の総意ではなかったのか。

 

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この時期の残虐性はキリスト教社会でも見られます。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3兄弟は宗教の中に残虐性を許す「システム」を持っていると感じています。転生輪廻を信じる仏教は本来折衝を嫌うのですが、浄土真宗が蔓延していた戦国時代でも戦争が続いたことから、必ずしも宗教は理由ではないはずです。しかしある程度の仏教的倫理観を持っていた部下が、君主である織田信長の残虐性についていけなくなってもおかしくはない、「この人を生かしておくとまずい」とみんなが感じるほどになったのではないでしょうか。

 

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現代の尺度と戦国時代の尺度を同じにしてはいけません。大量虐殺はこの当時珍しくありません。女子供を焼き殺す(刀を使うより低コスト)、見せつけのために磔にするという行為も一般的でした。しかし信長の場合は回数も人数も多すぎる、当時の武将でも人の心があり「人数の過多」による心理的影響はあったはずです。合戦ではお互いに死者が出ているので無視するとしても、比叡山では15004000人、長嶋一向一揆では一つの市町村に相当する2万人、高野山の聖を1400人近く処刑、殺すだけではなくとらえた女性は売却する行為もあったようです。有名な話として浅井と朝倉を打ち取った時、頭蓋骨に金箔をはって飾った(杯にして酒を飲んだという伝承はない)という話がありますが、この程度で驚く戦国武将はいなかったと思います。それよりも人数です。部下に対する懲罰体質も気になるところですが、人柄に関しては彼の死後でも称賛する人が多かったようで、管理職、文化人としては一流だったようです。

 

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結論を言えば「理由はわからない」という事になりますが、自らを神(天主)と名乗り、大量殺戮を繰り返し、部下に対する恐怖支配があった中、明智光秀が「信長の代わりになる」という下克上の気持ちと「このままではまずいことになる」という焦燥感(ノイローゼ)の気持ちの二面があったことは間違いなさそうだと感じています。

 

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2015年3月27日 (金)

水素は全くエコではない

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水素自動車が究極のエコと言われている事を聞いて「原子力発電所は安全」という言葉と同じくらいに騙されていると感じます。

 

そもそもエコとはなんでしょう。CO2は地球温暖化の原因となっています。しかし究極のエコと呼ばれていた原子力発電所は戦後に巨大事故を3回(スリーマイル、チェルノブイリ、福島)起こしており、ほぼ20年に一回地球に人が住めないエリアを増やします。いつも感じる「エコ」と言う言葉はエコロジーではなく企業のエコノミー(経済性)で動いていると感じています。水素自動車も同じ香りが匂ってきます。

 

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確かに水素は消費の時に水しか発生しません。しかし問題は地球上にほとんど存在しない水素をどのように供給するのでしょう。メタンから作る場合、大量の二酸化炭素が発生します。エネルギー効率から考えると、ハイブリッド車に比べればCO2の発生量は少なくありません。現在CO2はドライアイスとして利用しますが、ドライアイスを作るには冷熱が必要であり、消費先も必要です。10%の車が水素自動車になれば冷熱が足りなくなるかドライアイスの需要先が無くてCO2を大量に大気放出するしかありません。

 

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水素は水から電気分解で作ることができます。それには電気が必要です。だったら電気自動車にすればいい、わざわざ大きなエネルギーロスが発生する水素を作る意味はありません。そうすると電気が余っているところで水素を作るしかありません。具体的には砂漠でしょう。砂漠で太陽光発電をしても日本まで電気は送れません。ではなぜ砂漠で水素を作らないのか、水が無いからです。「水の電気分解」が必要なのです。大量の純水(不純物・イオンの無い真水)を砂漠に作って送るには大量のエネルギーがかかります。その上、砂漠ですと太陽光パネルに砂が積りすぐに発電効率が落ちます。

 

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騙されてはいけません、水素自動車はエコではありません。今はドライアイス需要が高いのでわずかに水素が余っていますから、少しくらいの車が水素自動車になるとちょうど良いのでしょう。それだったら電気自動車の方が良いのですが、原発再稼働が前提であれば地球環境全体でみるとリスクがあります。現状ハイブリッドかディーゼルカーがベストだと感じています。もしくは最近の若い人のように自家用車に乗らず公共交通機関を使いましょう。エンジニアとして水素自動車は素晴らしいと感じますが、エコではない、いわゆる特殊な高級車であることを理解して乗ってもらえるとうれしいですね。恐れていたような水素爆発事故も起きていないようですし、安全面では心配なさそうです。

 

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2015年3月24日 (火)

日本の歴史を少し正しく理解する 本能寺の変の謎 その1

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本能寺の変と明智光秀はさすがに私の手には負えません。

 

事実はシンプル、明智光秀が謀反を起こして織田信長を殺害しました、終了。問題は動機です。膨大な数の歴史家が明智光秀の動機を推論していますが決定打はありません。ミステリーが難しくなっている理由は、明智光秀が織田信長の2軍程度の存在であり、彼の人柄が十分に残されていない事、またクーデターを起こした後ですぐに殺されてしまったので動機を聞く機会が誰にも無かった事です。戦略に長けた織田信長が完全に油断していたくらいですから、明智光秀は動機を誰にも相談していなかったか、もしくは織田信長以外の部下「総意」によるクーデターだったかどちらかです。

 

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しかし明智光秀の軍が一糸乱れずクーデターに参加しているところを見ると、一瞬の思い付きではなく部下が納得できる雰囲気が作られていたはずです。そうでなければ「敵は本能寺にあり」と言われても部下が反対するか、明智光秀の首をとって織田信長に差し出したことでしょう。そうすると突発的な狂気ではなく、明確な動機と部下を掌握した用意周到に計画されたクーデターと考えるべきです。司馬遼太郎さんの小説では怨念説を採用しているように見受けられます。いわゆる「下克上」、織田信長に代わり主君となるという一番真っ当な動機もあるでしょう。他にも徳川家康や豊臣秀吉などが黒幕だったという説や家族を見殺しにされた仇討説もあります。わたしがどれだと思うかと言われても、とても手に負えません。正直わかりません。

 

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ただ感じるのは明智光秀にしても豊臣秀吉にしても徳川家康にしても、織田信長の激しい気性と残虐性が長い戦争生活の中でしみついているような気がします。それだけに明智光秀がまじめでやさしい人格であり、織田信長の残虐性についていけなかったという怨念説にはあまり共感できません。本能寺の変で明智光秀は織田信長の長男も殺害しています。このことから、少なくとも下克上の意識、「絶対君主になる」という織田信長の強い意識が明智光秀に伝染していたのではないかと感じるのです。羽柴秀吉がものすごいスピードで京都に戻ってきたのも「天下人伝染病」の効果のように感じます。

 

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ただ不思議は明智光秀の動機だけではありません。なぜ織田信長がこれほどまでに油断していたのか。命を狙われている事くらいわかるはず、世の中彼の敵だらけなのにわずか100名で防衛機能のない小さなお寺に陣を構えたのはなぜか。そして諜報能力にすぐれた信長なのに、なぜ明智の大群が向かってくる事に気が付けなかったのか。そしてなぜ、信長の首はみつからなかったのか。本当に謎だらけです。

2015年3月22日 (日)

日本の歴史を少し正しく理解する 安土城

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歴史に「もしも」は意味がないのですが、多くの人が残ってほしかった歴史建造物に安土城を上げる事でしょう。安土城は山城ですが、既に火縄銃があり防衛面で山城は意味を成しません。この城は天守閣を天主と呼びます。天主とはキリスト教で使う言葉で大浦天主堂などが有名です。キリスト教が伝わっていた戦国時代に「天主」と呼ぶことはキリスト教的な要素を感じます。山の上に城が建っており、巨大な教会の尖塔にも見えたでしょう。織田信長はキリスト教徒だったのか。

 

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織田信長はキリスト教を利用した一方で信者ではありません。安土城の「天主」の主はキリストではないのです。そう、信長の事です。彼は自分を天下人と呼んでいますので、安土城は信長を崇め奉るための「天主堂」だったのではないでしょうか。ルイス・フロイスは信長を絶対君主と呼んでいます。日本は長く和議をもって政治を行っていますが信長は秦の始皇帝に近い独裁者だったのではないでしょうか。安土城のもう一つの特徴は高い居住性だそうです。つまり軍事施設ではなく、彼が鎮座する「王座」だったのではないでしょうか。ちなみに織田信長の系譜である豊臣秀吉はもっとわかりやすく、自分を神にしてくれと明言しています。これは織田信長の真似でしょう。

 

 

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Google Mapなどで琵琶湖近辺の航空写真を見てみれば東日本から京都に大軍を動かすには一つのルートしかない事がすぐにわかります。関ヶ原から彦根に入り、琵琶湖東岸を南に進むルートです。彦根城は閉所を遮り関所のように道をふさぐことができますが、彦根の少し南の安土は開けており農地が多く、多くの人口を抱えられる一方で軍隊を遮るには不向きです。地理から見ても安土は軍事機能をある程度持ちながらも統治、つまり首都機能を主目的とした城なのです。京都にも近く、織田信長であれば半日で軍隊を移動できる位置であることも重要でした。本能寺の変が無ければ滋賀県が日本の首都になっていたかもしれません。

 

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さあ、日本の歴史の最大のミステリーのひとつ、本能寺の変がいよいよ迫ってきました。

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2015年3月18日 (水)

日本の歴史を少し正しく理解する 長篠の戦

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「天下布武」の印、これは織田信長が天下人であると宣言している事を意味します。

 

愛知県庁の知事が自分の名前の印鑑を使わず、「日本の支配者」という印鑑を押しはじめたら誰だって驚きますよね。しかもまだ足利家は残っていますし、天皇家が認めたわけでもありません。当然、将軍家は承服できず織田家に戦を挑みます。その時に足利家は武田家に援軍を頼む、そして初めて正義の戦争のお墨付きを得た武田家が京都に向かい始めるのです。最初は隣接する徳川家康との戦いになるはずだったのですが…武田信玄が死亡して撤退するのです。幸運の女神は織田信長だけではなく、徳川家康にも微笑みました。当時、各地で戦争を繰り広げていた織田家にとって、武田信玄に勝てる「確実な」見込みはなかったはずですが、勝手に撤退していったのです。

 

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その後、武田勝頼が織田家に向かって進軍したのが1575年の長篠の戦です。「時すでに遅し」、関西に基盤を固めた織田家は徳川、柴田、前田、羽柴など最強の大群で武田家に立ち向かいます。「若造」武田勝頼は部下に対して信頼がありません。武田信玄も下克上的な存在でしたから、本人がいなくなると子供にまで義理を通す気持ちがわかなかったのでしょう。しかも織田軍は既に火縄銃を大量に持っています。戦国初期のような地形を利用した武田騎馬戦は大量の火縄銃には勝てません。私の家に近い堺は火縄銃の生産で有名な地域でしたから町の祭りで火縄銃を見かける事がありました。今のライフルなどと違い、わずか数丁でもものすごい爆音で子供が泣くほどです。100を超える火縄銃に騎馬が驚いて前に進めなくなる効果もあったのでしょう。長篠の戦で武田軍は自暴自棄の自滅戦とも言えます。

 

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さて長篠の戦がどれほど遅かったのか。桶狭間は1560年です。この時点では防衛力の弱い清州城におり、ここで攻めれば武田の勝利は間違いなしです。織田信長は1563年に小牧山城に移動、この城の防衛機能の高さは2015年の発掘でわかったそうでホットニュースでした。1567年に岐阜城に移転、1568年上洛、1569年には浅井と朝倉を討ち、1571年に比叡山焼き討ち、1573年に足利将軍を滅し1574年に信長は公卿になります。1570年くらいまでであれば商機があったはずですが、1575年は遅い、遅すぎです。1560年近辺では川中島の戦いが続いているので仕方がないとして、西に進行を始めたのが1571年頃、その後、武田信玄が死亡します。ここでさえも少し遅い、武田は時流を見る目が無かったのでしょう。もし時流を感じる事が出来れば1560年代の前半に織田家を攻めるべきでした。武田は強すぎた、だから織田家を軽視したのでしょう。最後のチャンスは1569年、織田家が浅井、朝倉、本願寺と戦っている頃です。比叡山焼き討ちの頃、既に織田家は日本最強の軍事力になっていたのでしょう、1575年に武田家が勝てるわけがないのです。

 

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まだ上杉謙信も毛利家も残っています。本願寺との争いや高野山との確執も続いています。しかし世の中は信長が天下人になると感じ始めた頃でしょう。

 

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2015年3月15日 (日)

日本の歴史を少し正しく理解する 上洛と包囲網

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戦国大名に驚愕が走りました。

 

名古屋から岐阜の近辺の中小の一戦国大名が、京都までのルートを支配し上洛したのです。寝耳に水、京都には足利将軍と天皇家がいます。織田信長にとって重要なのは天皇家だったのでしょう。上洛して足利将軍を庇護しても、足利家からの職位は断っています。もちろん野心と忠誠のバランスを考え、守護職は引き受けて副将軍は断っているのです。他の戦国大名には戦慄が走ったでしょう。天皇が織田信長を天下人と宣言するかもしれないのです。戦国大名は誰も上洛を「遠い将来の目標」にしか置いていなかった、まずは領地の拡大を優先していたのです。そして足利家からの任官を断ったことから誰が見ても将軍家争奪に織田信長が名乗りを上げたとわかります。桶狭間の時から首尾一貫、織田信長の目標は大勝の首を取る事です。この時点では足利家を滅ぼさず、実権を持っていた足利家の側近、特に三好家を追放しています。

 

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自分たちの勢力拡大のみに明け暮れていた戦国大名、宗教団体、市民団体は結束を見せます。打倒、織田家です。ただし武田家がまだ動かない(動けない)事が織田家には幸いします。織田家と宗教団体との合戦は、実の弟を殺されるなど先に織田家が攻撃されるところから始まります。最初に織田家を攻撃してきたのは浅井、朝倉、比叡山の浄土真宗連合軍です。浅井家には妹のお市がいましたので、有名な合戦ですね。同じころに織田信長は一向宗に奇襲をかけられますが、報復として一向宗の子女を含めて20000人を皆殺しにしたとルイス・フロイスが書いています。非戦闘員も含んで惨殺するところが彼の恐ろしさです。皆殺しのニュースを聞いて「次は自分の番」と考える大名や宗教団体が結託して織田信長に総攻撃をかけるのは当たり前です。ここで一番ややこしい本願寺との戦いが始まりますが、ややこしすぎるので後回しにします。

 

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織田信長はあまり戦争に強いと感じられません。何度も負けかけていますし奇襲にもあっています。その弱さが原因で、勝ったときには敵を根絶やしにして再戦を防ぐため皆殺しを繰り返したようにも見えます。この時期は飢饉が多かったので、口減らしの意味も考えてみました。彼は少しずつ京都を中心にして地盤を固めていきます。伊勢、紀州、中国地方。問題は甲州や信州、武田と上杉です。各地で戦争が勃発し部隊を広い範囲に展開していた織田信長にとって武田が恐怖であったことは間違いありません。

 

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その武田がついに進行し始めますが、彼が策略なしに幸運だったと感じる唯一の事象は武田信玄の死亡でしょう。

 

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2015年3月 3日 (火)

日本の歴史を少し正しく理解する 兵糧

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日本の総理大臣がテロ周辺国に人道支援を表明した時、なぜテロ集団は日本を敵対視したのでしょうか。兵糧という問題を考えれば少し見えてくるかもしれません。

 

戦国時代になり軍隊が巨大化します。足軽という民兵の採用が原因です。足軽は略奪など無法を繰り返しますが、これは司令官としてあまり喜ばしい事ではありません。戦争で地域を占領しても民意が得られないからです。巨大な軍隊が略奪をしないためには十分な食料を提供する兵糧戦略が必要であり、兵糧を提供できる範囲が軍事範囲となります。織田信長はゲリラ的短期決戦を何度か用いていますが、これは兵糧の問題を回避する事ができるというメリットもあったでしょう。兵糧部隊を連れた軍隊は愚鈍になります。

 

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織田信長は大量殺戮を繰り返します。特に宗教革命的な軍隊に対する殺りくは苛烈で、女性や子供を含む住民を数千人から数万人も殺害する、町ごと消滅させるという行為を行っています。もちろん織田信長の激情を無視できません。典型的には自分の家族を殺害された後に苛烈な殺りくを繰り返していたようで、怒りに任せた行動です。反抗勢力を根絶やしにして敵討ちを防ぐのも狙いだったのでしょう。ただ副次的な効果として、「口減らし」も考えていたのではないでしょうか。男性だけを大量殺戮して子女を残せば生産性が落ちる上、食料が必要です。そうでなければ子供たちまで殺す必要はないはずです。私はこの日本戦争史においても最悪の非人道的と思える大殺戮のせいで織田信長が嫌いでした。しかし人口を減らさなければいけないという彼の信念があったことを冷静に、算術的に解釈しなければ本当の歴史が見えません。

 

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織田信長は無神論者かといわれると少し違う、彼は自分が神、少なくとも独裁者だと自覚していたように見えます。彼は江戸時代のようにキリスト教を禁止したり檀家制度を作ったりする宗教弾圧をしていません。それどころか宗教の自由を認めています。キリスト教も広めています。つまり宗教に興味が無い一方で、宗教が存在しても気にはならなかったのです。織田信長は家族を比叡山(浅井、朝野との連合)や一向宗に殺されています。先に手を出したのは宗教団体であり、「復讐戦」の形になっています。彼は敵を宗教で区別しませんでした。敵とみなせば滅ぼす、それだけの理論です。ちなみに高野山の僧兵(高野聖)も大量殺戮していますし、東大寺や根来衆も攻めています。比叡山だけではなく日本の主力寺院をすべて打ち破り、焼打ちにしているのです。武家と宗教団体との戦いは豊臣秀吉の時代でも刀刈りまで続くのですが、織田信長が大きな道筋を作り、食料が税金を逃れて寺院に集まる事を防いだのです。

 

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さて最初で提起した疑問、なぜイスラムのテロ集団は日本を敵対視したのでしょう。日本が人道支援をして薬品や食料を支援すれば、支援を受けた国に金銭的にも体力的にも余力が生まれ、国として医療費や食料対策に使っていた金を軍事費に回すことができます。つまり私たちのお金は間接的に軍事力を向上する事になるのです。兵糧支援は立派な軍事活動であり戦争加担です。私たちが目を背けている真実ですが、敵対している組織には本質が見えて当たり前です。食糧支援のためにお金を渡しているというのは日本の偽善的表現であり、実際には軍事支援です。戦争放棄を「永世中立」ととらえるならば、どちらにも加担しない、人道支援をするならば両方の組織に支援する、これが中立です。多分、戦争放棄を宣言している日本が相手だけに支援を表明したことは、テロ組織としては日本は戦争を放棄していたのではないのかと驚いたのでしょう。2億ドル請求は日本人に「中立ではないので平等であれ」「日本は戦争に加担している」という事を知らせようとしていたのでしょう。テロには絶対反対ですが、個人的には憲法9条がある以上、戦争中の国に対する人道的な支援さえも見送るべきだと感じますし、それでも戦争国を支援したいのであれば憲法9条を変えるべきと感じます。

 

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2015年3月 2日 (月)

歴史を少し正しく理解する 桶狭間の戦い

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日本の歴史が奇襲で動くことは珍しくありません。そしてなぜか、日本人は奇襲が好きなのです。有名な奇襲は二つ、源義経による「一の谷」そして織田信長による「桶狭間」です。前者は平家の時代から鎌倉時代に変わる起点であり、後者は戦国時代から安土桃山時代への起点です。小さな戦いですが、ここからすべてが始まる、この奇襲が成功したからこそ時代は変わったのです。多分歴史の中にうずもれた奇襲は膨大にあるはずです。多くの奇襲は失敗しており成功例は数が少ないはずです。ただし桶狭間は杞憂ではありますが、自暴自棄ではありません。いえ、織田信長は負けない戦をしており安全に今川の首を取っているのです。

 

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桶狭間の驚くべき点は、午前3時に(睡眠時間が短かった)織田信長が「敦盛」を踊り湯漬を食べると午前4時に5人を連れて出陣、熱田神宮で戦勝祈願をしている間に兵が集まり軍勢約2000人、最終的に5000人程度になります。あれ、織田信長は無神論者では?そう、織田信長は熱田神宮で「部下のために」祈るのです。そして小さな奇跡が起きます。いえ、小さな奇跡なんて誰でも簡単な作戦で起こるものです。しかし味方の士気が上がったとしても相手は2万~4万、徳川家康を先鋒に置いた今川軍です。正午頃には戦闘が始まっています。20Km程度の距離を数時間で移動して戦闘ですからすごい体力ですね。13時頃に豪雨、天が味方したのか天候の変化を知っていたのか。

 

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あまりに急襲なので今川は油断しています。ゆっくりと昼食を食べて酒を飲んでいた…え?昼からお酒?2万人分のお酒?地元の住民が飲ませてくれたそうなのです。すでに織田の領土なのに。彼の目的は明確でした。軍勢の数を減らすのであれば5000人では無理です。地の利があっても一人4人ずつ倒さなければいけません。しかし彼の目的は「大将の首を取る」の一点です。5000人のすべての敵がたった一人、今川義元なのです。14時、雨がやむと同時に昼間から酔っぱらっている今川軍に奇襲をかます。今川の首を討ちます。まだ信長が踊りを踊って12時間と少ししかたっていないのです。これが重要なのです。前日まで城にいるはずの織田軍が急襲できるはずはない、だから酒を飲んでいるのです。大将を失った今川軍は敗走、その後弱体化します。「清州会議」で織田信長は徳川家康と同盟を結び、名古屋から静岡あたりを覇権に収めます。

 

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桶狭間という峡谷、熱田神宮での奇跡、酔っぱらう今川軍、12時間での急襲、これらは明らかに作戦です。大雨はさすがに違うと思いますけどね、信長は用意周到で負けるはずがない合戦を圧勝で終わったのです。その後、美濃の斉藤家に勝利した信長は「天下布武」の朱印を使い始めます。他の大名が地固めと領土拡大をしている時に、彼は名古屋の周りを固めた程度で「天下を取る大王となる」と言っているのです。桶狭間一つを見ても彼は明らかに軍事の天才ですが、多くの部下はわからなかった、「大うつけ」と感じたかもしれません…木下藤吉郎を除けば。彼は単なる戦術家ではなく、戦略家であり大政治家だったのです。織田信長は30歳になろうとしています。

 

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2015年3月 1日 (日)

歴史を少し正しく理解する 信長参上

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織田信長はあまりにも有名なので説明するのが怖いですね。「信長の野望」というゲームは面白かった。ただ高校時代には彼の残虐性から嫌いな人物の一人でした。高校の歴史の先生が共産主義で反戦論者であったことから、過去の戦争についても非難していましたので影響を受けたのでしょう。歴史教育が人格形成に影響する良い例です。織田信長の行動のいくつかは狂気に感じていました。しかし歴史小説を読んでいく中で「うつけ」でもなければ「狂気」でもないとわかってきました。仏教徒の戦い、比叡山攻めや石山合戦(本願寺との戦い)については時間をかけて説明してきたつもりです。避けられるものではなかったですし信長が始めた戦争でもありません。彼は勝者に過ぎません。冷徹ですが狂気ではありません。安土桃山時代から江戸時代は武士の世の中になったため誤解してしまいますが、信長の時代は市民も僧兵も武士と同じ程度に力を有していたのです。合戦は「無抵抗な市民の殺害」には当たりません。最終的には武士が勝ったというだけの話です。宗教団体の子供や女性を殺した理由は宗教戦争のところで考えました。

 

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信長にも下克上的な背景はあります。織田家の家督を18歳で継ぐまで跡目争いがありました。もともと織田の分家の子供で嫡男ではなく、それどころか「尾張の大うつけ」と呼ばれています。この幼少時代が彼の人格を作っているようにも見えるのです。あまり高い身分でなかったことから庶民と仲よく遊び広く人材を見つける目を養い、人質であった徳川家康とも竹馬の友です。一方で武器マニア的な要素を見せていますし、本家である清州城に火を放つなど中学生から高校生くらいの年代で「戦争好き」という性格が生まれてきています。織田信長にはいくつもの才能があったと感じるのですが、特筆すべきは戦術家という面です。軍事技術家と言ってもいいかもしれません。極端に長い槍、火縄銃を3列に並べて攻撃、ごく最近も「当時の技術を超えた高い石垣」で敵を圧倒したとのニュースが流れました。鎌倉時代のような一対一の対決ではなく、明らかに近代的な戦争を持ち込んでいます。

 

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幼少期に重要な事件は斉藤道三との関係です。斉藤道三は極悪非道の下克上で成り上がった人物ですが、それだけに時流を見抜く力と人を選ぶ力は卓越していたのでしょう。日本を代表するビジネスマンです。その彼が敵対していた織田信長の器量を見抜いたとの話があります。信長は大うつけではなかったのです。ここで「うつけ」とは奇怪な行動をする人という意味です。分家の大将であった織田信長は、その後本家を破り清州城に登ります。ただこの頃はまだ戦闘の天才とまで言えず、勝ったり負けたりの戦を繰り返しています。いろんな作戦をためし、その効果を確認していたのかもしれません。

 

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最も客観的な信長の評価は宣教師であるロイス・フロイスの記述でしょう。「絶対君主」、他人の言う事は全く聞かず、一方である程度の人情味があったようです。信長が親族を打ち取ったのはかたき討ち的な要素があり、無慈悲とは言えません。しかし決断が早く迷いが無いというリーダーシップの一つの極みといえます。天性のリーダーシップ。部下は大変だったでしょうね、積もり重なって本能寺なのかもしれませんね。

 

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