« 歴史を少し正しく理解する 京都を歩く | トップページ | 歴史を少し正しく理解する 鹿苑寺 »

2015年2月 8日 (日)

歴史を少し正しく理解する 室町時代の始まり

Sin0047

日本は首都がおかれた地名で時代を表現することが多くあります。源時代ではなく鎌倉時代(鎌倉幕府)、足利時代ではなく室町時代(室町幕府)、徳川時代ではなく江戸時代(ここだけは徳川幕府)、明治以降は年号が時代を表現するために利用されます。天皇家は姓を持ちませんので、明治天皇はあくまで明治時代の天皇、昭和天皇も昭和時代の天皇です。幕府が支配していた頃に将軍家の姓を時代に使わないのはなぜでしょう。個人的な予想としては日本政府として天皇家ではない将軍の姓を時代名に使いたくないのかもしれません。鎌倉時代は源三代で将軍家が変わりましたが、室町時代は世襲です。それでは室町とはどこの地名でしょう、なぜ京都幕府ではないのでしょう。室町とは三代将軍、足利義満の家が北小路「室町」にあったからだそうです。彼らは京都を代表する存在ではなく、室町に家がある権力者という意味になるのでしょうか。江戸時代には城を持ち「江戸城」のような巨大建造物の存在がありますが、室町の政治はまだ平安京崩れの状態だったようですね、国会議事堂に当たるのは内裏だったのかもしれません。

 

Sin0043

鎌倉幕府が滅んでとりあえず征夷大将軍になった足利尊氏ですが、まだ南北朝時代が続いており、足利尊氏が日本政治の実権を持っていたとは感じられません。一応、武士の長という肩書はもらったのですが、守護を管理する力はなく、日本の支配者とは言えません。幕府の権力を強化し、中国から「日本国王」の名前をもらったのは3代将軍足利義満です。彼が天皇家を乗っ取ろうとしていたという人もいるようですが、私の知識ではそこまで推量する事ができません。ただ将軍になったり、太政大臣になったり、いろんな役職をもらってからやめている事は事実ですし、彼が天皇家の血筋である事も間違いありません。この「皇位簒奪」容疑についてはたくさんの本が出ていますので興味がある人は読んでみてください。

 

Sin0049

とにかく南北朝を一つにまとめ、鎌倉幕府が滅びてから自由に活動していた守護(正確には各国の国王)を軍事的にも制圧し、私たちがイメージする幕府の形としてまとめ上げたのは足利義満です。征夷大将軍の役職は尊氏の時代にもらったとしても義満が室町幕府の事実上の創始者であって、その後、すぐに弱体化していくことになります。彼が死亡したのは1394年、京都を戦場にする、つまり天皇家の居場所を踏みにじる「応仁の乱」は1467年であり約70年後に迫っているのです。京都で「戦前」というと応仁の乱の前といわれることまであるようで、京都は応仁の乱を境に変わります。義光の頃の京都は華やかな時代であり、その代表が金閣寺でしょう。

 

Sin0052

次はその金閣寺について調べてみます。

 

Sin0045

« 歴史を少し正しく理解する 京都を歩く | トップページ | 歴史を少し正しく理解する 鹿苑寺 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 歴史を少し正しく理解する 京都を歩く | トップページ | 歴史を少し正しく理解する 鹿苑寺 »

フォト
無料ブログはココログ