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2015年2月24日 (火)

歴史を少し正しく理解する 戦国時代突入の背景

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戦争発生のメカニズムを政治/外交面だけから見ていると「なぜ」が理解できません。戦国時代の話題に本格的に突入する前に整理しましょう。

 

戦国時代前半は市民革命的な要素を含んでいましたね。土一揆、一向一揆、下剋上など下から上に対する圧力が強くなりました。「政府に対する不満が市民に蓄積し、生活できないレベルになっていた」事を意味します。生活が苦しくても毎日が楽しければ誰も命を懸けた争いなど起こす気分にはなりません。平成の今、不況、政治が悪いと言いますが、内乱は起きていません。個人レベルで満足度が高く、貧富差はあっても衣食住には困る人は多くありません。衣食住さえできない人が全人口の10%を超え、飢餓で亡くなる人が何万人のレベルになれば内乱が起きます。死の恐怖が時代変革に必要なエネルギーであり、戦争があった背景には市民の命を脅かす何かがあるはずです。明治維新で黒船がきっかけとなり植民地化を防ぐために維新の徒が一致団結したように。

 

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戦国時代の死の恐怖は何だったのでしょう。応仁の乱の数年前に大規模な飢饉が発生しています。1461年には8万人を超える死者が出たとか。当時の人口を考えれば莫大な死者数です。食料が無い、食料の価格が高騰する、しかも賀茂川氾濫という大規模な災害まであり復興のために税金や使役の時間も増えたのでしょう。1年後の1462年に大規模な寛正の土一揆が起きています。庶民が求めたのは「徳政令」つまり借金の棒引きです。借金で首が回らず命をかけなければいけないほどの危機に直面していたのでしょう。そしてこの土一揆では鎮圧のために大規模な粛清が行われたようで、市民の不満は更に増していきます。世論として「支配者の交替」が期待されていました。ちなみにこの飢饉の直接原因は台風、虫害、疫病ですが、遠因としては火山の大規模噴火による地球寒冷化があるようです。

 

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この時代にもう一つ大きな飢饉が起こります。1540年の天文の飢饉です。文献にある「数千万人の死者」というのは当時の日本人校から考えて信じていませんが、全国に広がる大規模な飢饉であることは間違いありません。この1540年は重要なキーワードです。三好家のクーデター(1547年)や川中島の戦い(1553年から)とは少し離れていますが、武田信玄が信州に進行を始めたのは天文11年、つまり1542年であり飢饉と無関係だったとは思えません。つまり戦国大名が急に領地拡大を始めたのは食料不足のため、また米が税金の代わりに使われていたのでコメの生産量の急激な減少による税金の急激な目減りに対応するためだったと想像できます。飢饉で職を失った農民や市民が足軽となり戦力に加わり、彼らも食べさせなければいけない。武田信玄が「最初から京都を目指さなかった理由」は多くの武将を抱える武田家として「それどころではなかった」のかもしれません。そして織田信長が京都を目指せたのは農業生産力が回復している時期であり、しかも小国の上、部下が足軽で低賃金で雇っていた可能性があり、「天下」を狙いやすかったのかもしれません。川中島時代の米処がどこだったのかはわからないのですが、武田信玄が新潟を目指したのは「飢餓パワー」だったのかもしれません。

 

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その後、私が知っている限りで大きな飢饉は江戸時代までありません。飢饉は戦国時代発生の一つの想定原因にすぎないのですが、戦争の起因は死の恐怖です。死の恐怖が食糧問題であれば領地の拡大が最初に起こり、徐々に天下取りへと発展していったのではないでしょうか。今後もこの1540年がキーワードとなります。

 

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