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2015年1月13日 (火)

日本の歴史を少し正確に理解する 仏教、平安時代から鎌倉時代へ

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個人的に大胆な解釈を勝手に進めているこの勝手に歴史を楽しむシリーズ、ますます大胆な発想になっていきます。怒らないでくださいね。

 

平城京から平安京に逃れた大和政府は奈良仏教からの決別のためか最澄と空海を中国に派遣します。最澄と空海の確執についてはたくさんの本が出ているのでここでは割愛させていただきますが、彼らは中国で流行している新しい仏教、つまり密教を知ります。京都に住む人は新しい物が好きと聞きますが、平安時代の貴族も同じだったようで密教は平安京でブームになります。空海は真言宗を興し京都の中心、東寺で活躍、最澄は天台宗を興し京都を見下ろす延暦寺で活動を開始します。その後、延暦寺が武装を始めたのですが、僧兵は奈良の寺院でも当たり前の存在でしたので珍しい事はありません。しかし延暦寺の武装化は他の寺院と比較にならないほど強大で、しかも僧侶が絡んできます。神輿を使った強訴という方法はNHKの大河ドラマ 平清盛でも印象的に描かれていました。

 

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延暦寺攻撃を成功したのは織田信長ですが、平家の時代、後白河上皇も平清盛に延暦寺攻めを命令したという話もあります。諸説あるのですが、平安時代後期には天皇家(後白河)、平家(清盛)、比叡山延暦寺の三つ巴状態にあったのでしょう。その後鎌倉時代になれば首都から京都まで距離があったので延暦寺の影響が緩み、浄土宗が生まれてきます。その話は後回しにして今は流れ追いますと、室町時代になると幕府が京都に戻り比叡山は再び力を発揮します。比叡山を攻め滅ぼそうとしたのは足利家(室町幕府)、細川家など少なくないのですが敵いませんでした。最終的には織田信長が焼打ちにして、徳川家が天台宗の本山を関東に移動する事で比叡山は今のような風情のある平和な寺院となりました。日本の歴史を考える時に寺院の影響力を考慮に入れないと正確な把握ができません。なぜ強大な平家が力を落とし源家に敗れたのか、その源氏がなぜ鎌倉に幕府を開き、大仏を作ったのか。なぜ比叡山に近い室町にいた足利家が弱体化したのか。そしてなぜ織田信長の比叡山焼き討ちが悪評なのか。これらの背景には仏教、特に比叡山の存在を忘れてはいけないのです。

 

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さて鎌倉時代の仏教は平安時代までとは大きく変わります。時代は貴族政府から武家政府に変わっています。武家は貴族に近いもののまだ庶民であり、貴族社会の寺院との関係がうまくいきません。平家は仏教との関係を保っていました。源平の戦いと仏教の関連は今後に回すとして鎌倉時代には武家や庶民のための仏教が育ってきます。そこにうまくはまったのが革命児、「親鸞」です。彼については書物がたくさん出ていますし、映画まで作られています。彼のすごい所はまず結婚した事です。僧侶が結婚するなんて、あり得ない時代でしたからね。彼は20年近く比叡山で修業を積みますが「ついていけない」と下山し、その後はかなり自由気ままな人であり、京都を追放されたほどです。妻も複数いたように見えます。その後、本願寺を興した蓮如に至っては第5夫人までいますし、子供の数も30人ほどいたのでしょうか。これは明らかに国王による大奥に近い状況で、浄土真宗の世襲による勢力拡大が目的でしょう。本来、結婚もだめだから世襲なんてあり得ない仏教がここから世襲になり始めたのです。今では寺院の世襲が「あたりまえ」の時代になっていますが、親鸞がスタートです。仏教が葬式と結びつき始めたのもこの頃でしょう。彼ら仏教のヒーローについては、別の機会に見ていきましょう。

 

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少々仏教に飽きてきたので、少し脱線して源平合戦に移って行きます。

 

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